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山田尚子「きみの色」(吉田玲子脚本・サイエンスSARU制作)

みんな子供の頃は誰の目も気にせずに踊れていたんだよ。少しずつ成長して、背丈が伸びて、身体が大きくなって、関わる人が増えて、環境が変わって、いろんな気持ちが芽生えて、ちょっとずつちょっとずつ、自分の思ってる自分と、あるいは大切な人たちの想いと、ズレていってしまったと感じてるような人たちに、そんなあなたもあなたの「色」で輝いているんだよって、そっと手を差し伸べるような温もりが作品に溢れている。
いま、子供から大人になろうとしている子供たちへ。むかし、迷える子供だった大人たちへ。まるで祈りのような映画だ。優しく、温かな祈り。
それはきっと、優しい子供たちがその優しさのために迷い、惑い、諦めて、ちょっとだけ我慢して、少しずつ壊れていってしまいそうなときに、悩んだっていいんだよ、間違えてもいいんだよ、ってそんな風に優しさで包み込んで、優しい子供たちを優しいままに、子供たちなりの人生へと送り出そうとする優しさだ。
まさしく山田尚子のまなざしは慈愛のキャメラである。そのコンテ、そして演出、描き出される作画、映し出す撮影。付かず離れず寄り過ぎず遠過ぎず。親が子供を見守るように、観測でも観察でもなく、傾聴し、共感し、しかし安易に同調はせず、不必要に侵食もしないで、大いにともに楽しみ、ちょっとだけともに悲しみ、ぐっと近づいたかと思えば、時には少しだけ距離をとってみせ、じっと見続けるなんて失礼もなく、たまにあえて焦点を外す。
お互いの見せたいところを見せるけど、見逃してはいけないものはおずおずと拾い上げ、しかし本当に隠したいものは尊重し、相手が見せてもいいと思えるまでは掘り返さない。
山田尚子の場面の切り取り方は、まるで呼吸をするほど自然に人と人との仲を取り持つ。初めましての人たちも、ちょっとだけボタンをかけ違えてしまった人たちも。
これは紛れもなく「子供」の映画だ。それゆえに必要なのは「大人」たちなのである。山田尚子のまなざしはまさしくその大人たちのまなざしに他ならない。おそらくは自分たちもいつか、どこかで、悩んだり迷ったりして間違えてしまったかつての子供たちのまなざしだ。それは揺るぎなく優しい理解と温かく広い心、そして自分を省みるような少しのため息でできている。
そう、ティーンエイジャーとは誰もがきっと通る道。子供というにはもう大きくて、大人というにはまだ幼い、少女と少年たち。彼女たちに寄り添えるのは、似てるけどどこか違う、まったく違うけどなぜか同じ経験をしてきた周囲の大人たちだ。
大人たちはたぶん、子供たちが悩んでいれば助言をすることしかできず、明らかに間違えてもそれを正すチャンスを与え直すことしかできなくて、子供たちが話してくれることに耳を傾けられても、子供たちの話を聞き出すことはできない。だってもう彼女には、彼には、自分だけの「好き」ができていて、自分だけの「秘密」があるから。
それらを照射するでも浮き彫りにするでもなく、山田尚子はただ寄り添っている。そのまなざしを体現するためのスタッフたちの仕事ぶりはきっと誰もが驚嘆するほどのさりげなさと鮮やかさがマリアージュする大胆さだ。
強く細く柔らかいラインでしなやかに伸縮する小島崇史のタッチは、富田喜允の撮影によってパキッともボヤッともつかない手触りでもって対象を凝視するでも薄目で見るでもない、彼女たちの親密さを形成するのであり、それぞれの持つ色の世界はもちろん、その喜怒哀楽につきまとう感情を描き出すような小針裕子の色彩設計は心の中に生まれる感情という非日常も生活という日常も描き出す。
既にコンビを組むのも長くなったagraph・牛尾憲輔は今回もまた強く、音楽を作っているというよりも音楽で、時に心から弾け時に静かに内省する彼女たちの感情の起伏というキャンパスに額縁を与えてくれているようだ。まさかのアンダーワールドの引用には度肝を抜かされながら、しかしこれほどまでにその場面の気持ちを彩る挿入がふさわしいアレンジもないというようなうれしい驚きでさえあったほどである。
そしてまた普通なら浮いてしまいかねない俳優キャストの声優起用をズバリと当てはめた木村絵理子の音響演出が、後にも先にも聞けないだろう10代を生きる子供たちの、そしてその頃を知っている大人たちの、キャラクターとしての生を綿密に与えてくれている。最後のエピローグでがんばれを絶叫する髙石あかりにはよもや本当に心を揺さぶるエールの気持ちを感じた。
そしてそれら全ての土台となるように吉田玲子はわずか1年にも満たないような出会いのなかでの子供たちの心の成長、青春という財産、きっとこのあとも彼女たちは持ち続けられるだろう誰かへの、あるいは自分への優しさがいかにして育まれていくか、とても丁寧に過不足なく丹念な道筋を示してくれている。
そう、優しい子供たちが優しさゆえに迷ってしまったときに大人たちから優しく子供たちを包むということは、全てを肯定するわけでもなく頭ごなしに否定するでもない、子供たちが自分たちを、長所も短所も含めて愛せるように促してやるということのはずなのだ。
本当に気持ちを割いて心配はする。しかし真っ向からぜんぶ叱るわけじゃない。好きなものができたならその好きを伸ばせるように、秘密ができたならいつかその秘密を打ち明けてもらえるように、間違えてしまったのなら何が悪かったかを伝えて反省する機会を作れるように、それがきっと寄り添うってことなんじゃないだろうか。
親にしろ先生にしろ現実では誰もがそんな大人たちに巡り合うわけじゃないけれど、まるで山田尚子と吉田玲子はそんな大人たちのいない子供たちに向けてもこの映画のまなざしによって、親の代わりに、先生の代わりになるかのように、優しく育ったあなたは優しいあなたのままで、あなたの色で生きてていいんだよって諭してくれるようだ。
誰にも打ち明けられない秘密を抱えて苦しむ高嶺の花も、夢中になれる好きなものができて親の期待に背いてないか悩む優等生も、自分の憧れる夢や理想に届かずにちょっとだけ自分にがっかりして諦めてしまった普通の子にも、大人は判ってくれるはずだよって、そっとエールを送ってくれる。
だってみんな誰もがあの頃は子供だったはずなのだから。楽しい音楽が掛かり始めれば普段はお硬いしわがれたシスターたちだってスキップして踊り出すし、いつもはちょっとだけ厳しいシスターも昔はやんちゃしてたのかなってくらい少しだけ早口でたくさんしゃべり始める。忙しく働くお母さんも子供の晴れ舞台を見たいものだし、飾り気のなさそうなおばあちゃんだって若い頃はきっとバリバリにかっこいい格好をしてたんだろうってファンキーに駆けつける。
みんなそれぞれの色があって、普段は普通の人たちにはもしかしたら見えないだけで、トツ子ときみとルイの3人が持ち寄った「好き」と「秘密」で生まれたサウンドが、体育館に集まった人たちのそれぞれに持ってたはずの普通じゃない「色」さえ見せてくれるようなラストシーンは、きっと誰もを自分たちなりに過ごした「青春」の時間へ見るものを、聴くものたちを戻してくれる。その歌は、その動きは、その音は、これまでそう生きてきたあなたの「好き」を肯定してくれる絶対的な祝祭感に満ちている。
この100分あまりこそが、悩んだり迷ったり苦しみながらちょっとずつ諦めてしまった自分自身を取り戻していくための時間なのだ。だから彼女は再び踊り出せる。恥ずかしがらなくていい。下手っぴでもいい。のびやかに、しなやかに、踊りたいように踊ればいい。それはちゃんと自分を好きになるってことである。そのときトツ子はようやく自分の「色」を見つけられる。優しさに包まれて見つけたその色が、きっといつか日々大人になっていく自分のための帰る場所になるのだろう。
自分に、あるいは他人に不安を覚えて一歩引いてしまう子供たちに、いやむしろ、他人のために自分を押し殺してきた昔の子供たちにこそ、見たら心の暖炉の片隅にそっと薪をくべてくれるような、そんな人たちのための温かく優しい傑作だと思う。

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