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ミロシュ・フォアマン「火事だよ!カワイ子ちゃん」

まったくスラップスティック。真っ先に思われたのはそういうこと。
良かれと思ってやる消防隊員たちのゴタゴタがハチャメチャになっていく。誰も悪い人などいないはずなのに、どうしてそうなるということばかりのとりとめないグタグダ感。
善き人との愚かしさか。愚かと言ってしまえば何か違うが、そういうものによってすべてシーンが作られていること、このかなしいほど笑えるおかしさ。これを愛おしいと表現するようなファンもいるのだろうか。
実際の地元消防署員たちとの交流で映画のアイディアが生まれ、そして映画の素人である彼らをそのまま起用して作られたこの映画では、生身の人間とその人格が生かされるようにフォアマンによって練られた脚本が随所に彩りある魅力的なシーンの数々を作り上げ、いかに映画がキャラクターを生かしてるか、いかに映画が人々に生かされたか、そのことが映画を見れば一目瞭然とわかるだろう。
だがそれゆえに、ミロシュ・フォアマンが直接地元の人たちと交流し酒を酌み交わして生まれたこの映画は、いかに彼が人間を愛し、それとほとんど同じくらい深く絶望、ないし悲嘆しているかというアイロニーをも浮かび上がらせるだろう。
イジー・メンツェルとも似る人間愛からくるような被写体のおもしろおかしい縁取り方や温かさと決定的に違うのは、やはりその人間たちの愚かしさを冷徹に射抜いてさえもいる人間たちへのまなざしだ。
映画は、いやミロシュ・フォアマンは、酒を酌み交わして互いに笑い合いながら冷静にその相手たちを観察している。そしてそのことによって対象の「人間味」そのものからくる喜劇という完璧なリアリティーある映画を型作る。
これらは素晴らしく凄いことであると同時にたまらなく恐ろしいことだ。悪意ある物言いをしてしまえば、ミロシュ・フォアマンは心を開いてくれた人々を丸裸にして映画という舞台に晒し笑う対象としてスクリーンに磔刑に処してしまったわけである。
それもバスター・キートンやハロルド・ロイド、当然チャールズ・チャップリンといった人々らに見られる「笑い」の皮肉と悲哀の裏返しの延長にありながら、とてもごく自然に、普通にそこらにいるような人々を「そのまま」生かすことによって。
しかしそんな「そのまま」にも当然作家のバイアスがかかっている。この映画のなかで特に見事だと言わざるを得ないところと、そのためにいかにこの映画の作り手がその中から一歩引いて、まさに冷静に、冷徹にその映画という場を観察しているかということがとてもよくわかる場面は一緒である。
終盤、近所で火事が起きて「Horï」(チェコ語で「火」の意)と皆で言いながら現場で飛び入りの消火活動に参加するところと、そのあと焼け出された老人に皆で抽選券のカンパをしようとするところだ。ここには笑えるとともに本当にゾッとさせられる。
老人が寒いだろうからと椅子に座らせて火事に近づけようとする彼らの官僚的場当たり主義のゴタゴタもさることながら、恐ろしい演出をするのはパーティー会場にいたエキストラたちがそのまま酒を飲みながら火事を野次馬したり、酒場の主人に至っては商売にいそしんだりすることである。
これらのミディアムショットやクローズアップの何ら情感もかもさない均質さと距離感、ミロシュ・フォアマンはまるでそれらと同じぐらいの質感で消防署員たち彼らのカンパという善意の様子さえ撮り上げて、並列的に置いてしれっとしている。
今作の根元はその観察眼によるところのシニカルにブラックユーモアを見せる善悪の均質化だろう。
ミロシュ・フォアマンのカメラの前では火事の野次馬という人々の邪悪な無邪気さも、困った人へのカンパという無邪気な善良さも、まるで等質な人間の、愚かしさと言うには忍びない、可笑しさとして提示されている。
人間愛のオブラートに包まれた映画の笑いの奥底にギラギラしたテーマというべき、社会主義独裁下による官僚政治のゴタゴタへの批判的創意ゆえにこの作品が永久非公開処分となったことは想像に難しくない。
なにせこの映画の笑いを生むグダグダは、すべて消防署官僚たちの善良な人格と無計画(ミスコンの当日準備)、無遠慮(声をかける女性はじめ、モデルたちの雑な扱い、彼らの下卑た笑い)、無分別(くじ引き景品の盗難騒ぎや火事の対応)、無秩序(計画性のないパーティー、統率のない進行)、そういったものから来ている。
それを見守るまなざしは、明確に消防士個人個人たちへの生暖かい愛の視点であるとともに、明瞭な体制批判とさえなるものなのである。
監督はこれを最後にチェコから亡命する。

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