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体験の語彙

ロンドンの路上で、おじさんたちに心配された話。

真面目なことを色々と書き出す前に、取るにならない話だけれど、翻訳を始めたばかりの頃の、自分にとっては忘れられない思い出がある。

I gripped the wet bark of the tree as though trying to cling to it, 


いまちょうどこの文を訳していたのだが(もう30回目くらいの挑戦だ)、ロンドンにいた頃、ちょうど四年ほど前にも、私は同じ箇所を訳そうとして苦しんでいた。なんてことのない文章だけれど、物語のなかに据えられると、この単純な文がうまくいかない。一人称で語る声(voice)、状況、体勢、感情の盛り上がり、前後との繋がり、そこでもう一度原文、日本語としての美しさ、いろんな要素が絡み合って、何通りにでも訳せるはずなのに、一つの正解すら出てこない。

文芸翻訳って答えが無限にある、みたいに言われることもよくあるけれど、私はいつも答えは一つだと思っている。いや、優れた翻訳者二人が別々に、全編を最初から最後まで訳せば(The Catcher in the Rye のように)答えは二つになるかもしれない。

訳す人の数だけ訳文がある、というのも本当だ。複数の人が同じ箇所を訳して、一文でもまったく同じ訳文になった、という例はほとんど見たことがない。

そういうことではなくて、とにかく、未熟な翻訳者はまず一つの正解が見つからずに苦しむのだ。たくさんある候補から選べなくて迷うのではなく。

そんなわけで、私はこの文章をうまく訳せず、悶々としながら通りを歩いていた。途中で立ち止まり、電柱をつかんだ。スローン・スクエアの裏の住宅街だった気がする。電柱をマレーシアのペナン島に生えているカジュアリナの木に見立てて、ちょっと太いなぁとか思いながら、手に力を込めてみた。clingとは何か。「しがみつく」では ’as though trying’ がなんだか腑に落ちない。ではどんな心の状態で、主人公はclingと言っているのか…?(あれから三年経ったいま、ようやく自分なりの答えが出た)

めちゃくちゃ難しい顔で、電信柱を握りしめて、じっと立ち止まっている。スマホを見るでもなく、誰を探すでもなく。たぶん、というか確実に、貧血を起こした人に見えたのだと思う。おじさん二人組が大急ぎで寄ってきて、大丈夫かい?と言ってくれた。なんと答えたかは全然覚えてないけれど、急に笑ってスタスタ歩き出した私は相当変だったと思う。

こういう時に何の躊躇もなく声をかけてくれるイギリスの人たち、本当に大好きでした。

物語の翻訳をしていると、こんなことがよくある。体を実際に動かして、身も心も疑似体験してみないことには、原文から得た情報と自分の知っている体験の語彙が結びつかないのだ。きっと、翻訳者の方々にはあるあるなのだと思う。あの時、私はこの話を誰にもできなかったけれど、少しだけ翻訳の世界に入れた気がして嬉しかった。帰りながら一人で笑っていた。

そして不思議なことに、特定の文章を悩んでいた時にどこにいたかというのは、そのときの景色や視界や手足で触れていたものの感触とともに、数年前のことでもはっきり覚えているものなのだ。

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