幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第三章
第三章 酔っ払いの救世主
柏木さんに惚れこんだもう一つの理由が、その意外なまでの男気というかやんちゃっぷりである。普段はそば粉で煤ぼけた眼鏡をかけ、毎回必ずそば釜の湯を吹きこぼすようなどんくささなのに、実は誰よりも面倒見がよくて、図太い筋の通ったガテン系だったことである。
関西に手打ちそばブームが到来し、『かしわぎ』もよく取材されるようになった頃、関西グルメライター界の重鎮が三,四人でやってきたことがあるのだが、その人たちが帰った直後、柏木さんは計量カップに口をやりながらこう一言。
「なんだかつまんない人たちだねぇ」
どんなチンピラが来店しても人の悪口を言わない人なのに、この時だけはぽろり。本当につまらないと思ったんだろうなと。それだけに重みがあった。柏木さんは狡いやつが大嫌いなのである。
一九九八年の春、僕は突如、三重県松阪市に転居した。そして初夏に、日替わりインド定食の店『THALI』を開業。
大阪の箕面でやっていた『ピーエイジバー』を一九九五年頃にスタッフに譲渡して以来、ライター一筋でやってきていたのだが、一身上の都合ですべてを捨てて松阪で商売を始めたのだった。
開業といっても資金はわずか一〇〇万円。電線を巻くドラムをテーブルに、その小型ドラムを椅子にしてなんとか十五席設置。カウンターは近所の材木屋から無料でもらった廃材を組み合わせた。シンクと家庭用のガスコンロ、スプーンなどの什器は近所の質屋から一式二万円で購入。このような狭小でチープな店である。
店を開けて二週間ほど経った夕方五時過ぎのこと。うとうとしていたところにアルミサッシの扉が静かに開いた。カラカラカラ。
ふと顔を上げるとそこに柏木さんが立っているではないか。今日は真っ黒のベレー帽姿である。
「あ、寝てた、元気。これ、神宗(かんそう)の昆布、佃煮」
神宗とは大阪の老舗の昆布屋さんである。
「ええっ、柏木さんじゃないですかっ、びっくりしました。あっ、いただきます。すみません、ちゃんとご挨拶の連絡もせず」
柏木さんは何も言わずに、ゆっくりと店の天井から床までを見渡し、数秒経ってからいつもの笑みを見せた。そして、ゆったりと一歩こちらに近寄って、ポケットから一枚の封筒を取り出し、僕にポンと手渡した。見ると、赤と青で彩られた熨斗の間に「祝開店」と書かれてあった。
「まぁしかしなんだね、神宗の昆布の佃煮って、ちょいとだけ調味料が入ってんだけどこれがまたいけんだよねぇ。ふむぅ、酒あるかな」
こういう照れ隠しと、相手の安心感を誘うところが柏木さんの真骨頂である。
数日前にちょうど「これぞ地域の人間が愛する酒」といって一升瓶を頂いたところだった。松阪市の南に位置する多気町の「鉾杉 金鳳」。つまみは、チキンカレーと豆のカレーそれぞれを煮詰めてスパイスを強めに利かせたものを。
「お、カレーと酒ってあうんだね。俺、これだけで十分だから。そんな気をつかわなくていいから、さ、カワムラ君もここに座って飲みなよ、コップもってきて」
そう言って隣の椅子をポンポンと叩いて、一升瓶をグイッと持ち上げた。トクトクトクトク。
「まさか、来ていただけるとは、びっくりです。わざわざありがとうございます」
「松阪って東京時代に取材かなんかで来たことあったんだよね。大学の同級生も松阪出身のがいてさ。難波からだと特急一本で一時間半くらいでこれちゃう。大阪だと近いやね」
「そのベレー帽姿で特急に乗ってきたんですね。めちゃ似合ってます」
「あ、実は俺ね、本当はベレー帽が一番好きでね。店の帽子は仕事用っつうか」
他愛もない会話と地酒を何度も交わす。今日も客は来ない。七時半頃、看板のコンセントを抜いた。そして派手なインド音楽から、ルイ・アームストロングのCDをラジカセにセットしなおした。外には近所三軒の家の明かりが浮かび上がっている。
「むふふふ。それにしても本当にやっちゃったんだね、店。スパイスのにおいが隅々まで染み付いてるよ。岡もっちゃんから聞いてたんだよ、カワムラ君が松阪でインドの店を始めたってね」
柏木さんの目が普段よりもさらにとろんと下がり、二重瞼になっている。ぼんやりとこちらを見ては、思いつく言葉を発してくる。普段の倍以上のユルユルモードだ。
「あのぅなんだなぁ、つまり、この町に来たってぇのは、そのぉ女なんでしょう。女を追っかけてきたってぇわけなんだろぅ」
「ええ、実はそうなんです。嫁はんの実家がこちらなんです。柏木さんところにも連れて行ったことのあるあの嫁はん。九六年の夏に子供が生まれてからずっと別居してたんです。なんとかやり直せないかなと思って、追いかけるようにしてここにやってきました。格好悪い話ですが」
「むふ、ぶぁわっはっはっはっ、やっぱりそうだろぅ、そうだと思ったよぅ。ったくもう、馬鹿なことやってんなぁ」
「ええ。でも、彼女はいきなり離婚を突き付けてきて。なんだか狐につままれたような感じです。僕は親父の唯一の形見であるマンションを売り飛ばしてきてしまいました。二七〇〇万円で買ったものが一三〇〇万円にしかならなかったけど。おふくろは泣きながら僕を見送ってくれました」
「そいつは大変だったね」
「もう半年くらい子供の顔を見せてもらってません。最悪の状況です」
「確かに最悪だ、大失敗だ、うん」
そう言ってコップの酒をすっと口に含んで軽く舌打ちをした。
「でもまぁ、それでいいよ。カワムラ君は間違ってない。男は時に大馬鹿な勝負にでなきゃならないことがあんだから。自分がこれだと思ったことを貫きゃあいいよ。駄目で元々だってね。とことんやればいい。結果よりもやりきることが大事なんだって」
「ええ、でもこの先どうしようかなと悩んでます。開店してまだ二週間というのに。彼女が戻ってくるイメージがこれっぽっちも沸いてきません」
「むふふふ。そりゃ戻ってきた方がいいんだろうけど、まぁそのことより、カワムラ君が大馬鹿を決行したことに意味があんのよ。そういう男にはそのうちなんか面白いことがあんだよ。彼女が戻ってこなかったとしても、それだけのことやったんだから。その分、必ず面白いことがある」
「岡本さんも同じようなこと言ってくれてます。仮に向こうに男がいたとしたら、それはそれでカワムラにもいい出会いが待っていると。岡本さんはすごい楽観的で一緒にいてもらうと気持ちが楽になります」
「岡もっちゃん、いいねぇ。ふふ、自分はどうだっていうんだろうね。カワムラ君より二歳年上でしょ。浮いた話もなさそうで。結婚する気ないのかね」
「あの人は謎に満ちてます。ちゃんと助兵衛心はあるようなんですけど、その先へは進展しない、というか進展させないのかな」
「がっつく感じがないもんね。酒は一滴も飲まず、そばとネギネギ小鉢は何杯でも食べる。こないだなんて炊飯器のかやくご飯全部食べちゃったんだからびっくりだよ。こんなに食べるシトが世の中にいるんだってね」
「なんだか岡本さんのことを思うと、僕なんか贅沢で我がままだなと思えてきました。嫁さんも子供もいなくても、いつも誰かのために生きている。しょっちゅう泊りに来てくれるんですよ。僕の心配してくれてるのだと思います」
「すごいや、岡もっちゃんは。うちにもしょっちゅういろんなそば屋の話とか、自家製粉のこととか言いに来てくれるよ。あのシトの記憶力は桁外れでしょ。すごく助かってるし勉強になんだよねぇ」
「僕なんて自分のことばかり。どうしたら岡本さんみたいな生き方出来るんでしょう」
「人それぞれ性格が違うからうまくいくんだって。自分が納得のいくまでとことんやるってのは悪いことじゃない。こういっちゃなんだけど、見ていて面白いよ、ふふ」
いつのまにか一升瓶が空となっている。
「あ、確かもう一本五合瓶の地酒があったはずなんですけど」
冷蔵庫の奥に「若戎 大吟醸」(三重・伊賀)を発見。
「いいよいいよ、気をつかわないで。もう十分飲んだから」
そう言いながらくいくいと飲む柏木さん。
店の周囲はすっかり真っ暗となり、薄暗い裸電球の下で我々はますます酩酊していった。
「俺は思うんだよねぇ。今時の男はちっと大人しすぎんじゃねぇのかって。当たり障りなくとか、政治家じゃないんだから、そんな巧妙になってばかりじゃだめだって。失敗したっていいじゃない。なんと言われようが、男は一生やんちゃやってればいいってぇ。そういうシトがモノを書くのに向いてんだよ。上手なやつはつまんねぇ。面白い人生を生きてるってことが一番の題材なんだから。芸人みたいなもんだよ、物書きは。カワムラ君はいつか長編を書くよ。私小説なのかエッセーなのか形はわかんないけど。今からちょっとずつでも書いておけばいいよ。とりあえず忘れないためにね。焦らず急がず丁寧にね」
すごい、しゃべるしゃべる。
「柏木さんにそう言ってもらえると嬉しいです。ただ、子供のことだけが気になってしょうがないんです。僕の気持ちはずっと空回りしたままで。ほんま、どうしても道が見えなくて」
「ふむぅ子供か。うん、わかるよ。ほら、俺にも子供がいるって言ってたでしょ。下の子だけがさ、なんとか結婚すりゃえいいのにって思ってんだけど」
「柏木さんでも子供さんのことが気になってしまうんですね」
「まぁね、色々あったから」
ふと、オカンのことが頭に浮かんだ。あの人はいったいなんなんだ。
「おかあさんというのはそのお子さんたちのお母さんじゃないんですよね」
「違うよ、今の相棒は元々飲み屋やってたんだよ新宿で。縁があったんだよね。気がつけば、今あぁやって一緒にそば屋なんかやっちゃってんだよ。ほんと俺も馬鹿やってんだよ」
東京のご実家のことはよくわからないが、僕たちが普段見ているオカンは本当の奥さんでないことはわかった。でも我々にとってはお二人がどういう関係であれ、あの小さなそば屋劇場の主役コンビであることに変わりはない。
「柏木さんはほんまもんのアホですね。男柏木、ここにありって感じです」
柏木さんは身体を前後左右にゆっくりと揺らしながら酒が入ったコップに手をやった。かなり酔っているようだ。
いつのまにか時計の針は九時過ぎを指していた。
「あ、柏木さん、もうベロベロですから、どうぞ家に泊まってってください。二階がけっこう広くて。汚いところですけど」
すると、柏木さんは二重瞼を一所懸命に大きく広げてこう言った。
「ええぇっと、ここ、どこだっけ。あれ、心斎橋はどっち」
「さっきからおんなじ質問繰り返してますって。だからぁ、ここはまっつぁか(松阪)です」
「あぁそっかぁ」
「いや、ほんと泊まってってください。おかあさんには電話しておきますから」
「いいよいいよ。その辺のホテルに泊まってくから。俺ぁこう見えても、フーテンのプロなんだって。さっき、ちゃあんと確認してんだからさ、あすこの角まっつぐいったところにホテルが二軒あることを。ね、間違ってないっしょ」
確かにホテルは二軒ある。しかし、ほっぺは真っ赤だし、視線は泳いでいるので、とにかくこのまま帰すわけにはいかない。
「とりあえず、心配してるといけないのでおかあさんに連絡入れますから」
大阪にいるオカンに電話をいれる。
「もしもし、河村です。あのね、柏木さんかなり酔ってはりますから、今日はうちに泊まってってもらいます。いいですね」
「まぁ、本当に悪いわね、お願いするわぁ」
電話を切ると、柏木さんはベレー帽を頭の上に斜めにのせてこういう。
「いいってことぅ。俺ぁ大丈夫っ。ちゃあ〜んと家に帰るからさぁ〜。ほらっ、お勘定しとくよぉ」
「いや、要りませんよ」
「ってやんの(何言ってるの)、ほら」
そう言って一万円札をテーブルにそっと置いた。こんなに顔を真っ赤にしてふらつく姿を見るのは初めてだ。
「本当、柏木さん、大丈夫ですか。もう足がふらふらですよ」
大阪・上本町行きの最終列車は九時四六分。現在、九時半。今の歩調で間に合うだろうか。柏木さんは店に来たときと同じように、ゆっくりと戸を開けた。外は真っ暗である。
「で、ミナミはどっち」
「いや、だからここは大阪じゃなく、まっつぁかですって。電車に乗らなきゃ駄目です。僕、駅まで送っていきます」
柏木さんは身体をゆらりゆらりとさせながら、右手を大きく横に振った。
「あぁ、だ、大丈夫だってぇ。俺ぁねえ、こういうシナビタ(鄙びた)町を一人で歩くのが好きなんだよ。ぐひっ」
そう言って、よたよたと路地から通りのほうへ歩き出す。僕も横について歩いた。店の前の道を右へ出て五〇メートル行ったら今度は左へ曲がる。そして一〇〇メートルほどで松阪駅に着く。
僕は何度も柏木さんに駅までの道順を説明する。
「はぁい大丈夫だからぁ、ここでいいって、ぐひっ」
通りにはチカチカと点滅を繰り返す青白い外灯。柏木さんは千鳥足でふらりふらり。あぁ危ない。
「だから、ふふふ、ふにゃむにゃ」
五〇メートルの道から大通りに出た。左の先に駅の明かりが浮かんで見える。ここで柏木さんは上半身をゆっくりとこちらに旋回させ、「ほんと、ここでもう大丈夫だから。一人で帰れるから」と二重瞼でにやりと笑った。そして手をあげて、ゆっくりと進んでいく。
傾いたベレー帽とゆらゆらとする背中。僕は目を細めながらただ見届ける。そして、しばらくして柏木さんの背中は駅の中へすっと消えた。
正直、この時の僕は誰にも言えないくらい地獄のどん底だった。しかし、柏木さんの計り知れない応援の気持ちで救われた。