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座右の書 仏教聖典

常に自分の手元に置いておき、その内容をいつでも引くことができるようにしてある本のこと。自分にとって参考になったり励みとなったりする本。

実用日本語表現辞典

辞典にはこのように説明されています。頼りにできるものがあると心の支えにもなります。
では、座右の書はどのようにしたらできるのでしょう。

よく座右の書にする○○冊といった本を目にします。こういう推薦本から気に入ったものを選ぶという方法もあると思います。でも、座右の書というのは繰り返し何度も読む本ですよね。果たしてそういった本と簡単に出会えるのでしょうか?

私の考えでは、座右の書は選ぶものではなく、出会うものだと思います。それは名著であったり、古典であったり様々ですが、いろんな本を読んでいくうちに偶然出会うこと。セレンディピティと言ってもいいかもしれません。そういう出会いに価値があるように思えます。

深い本ほど何度読んでもそのたびに何らかの気づきがあります。そして自問自答するうちに、自分というものが何かできてくる。人生のよりどころのようなもの。それが座右の書というものではないでしょうか。それは自分が創るものがたりの骨のようなものになるかもしれません。ぶれない自分を創るための。

私にとっての座右の書は今のところ何冊かあります。ここで一冊上げるとすれば、
「仏教聖典」 ㈶仏教伝道協会
いくつかのバージョンがあって、私のは和英対照版です。
和英対照版は仏教用語の意味が分からないとき英語が参考になります。
この本はブッダの教えを中心にまとめられた仏教聖典で仏教の宗派に関係なく読めるようになっています。かれこれ7年ほど愛用しています。ではその中からいくつかご紹介します。

自ら燈とし、頼りとせよ(自燈明)
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。

仏教聖典

姿や形だけで仏を求めてはならない。姿、形はまことの仏ではない。まことの仏はさとりそのものである。だからさとりを見る者がまことに仏を見る。

仏教聖典

仏の智慧はすべての道理を知り、かたよった両極端を離れて中道に立ち、また、すべての文字やことばを超え、すべての人びとの考えを知り、一瞬のうちにこの世のすべてのことを知っている。

仏教聖典

 網の目が、互いにつながりあって網をつくっているように、すべてのものは、つながりあってできている。
 一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。
 網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。

仏教聖典

私自身は熱心な仏教徒ではありません。なぜこの本が座右の本かと言えば、人間ブッダその人を尊敬しています。ブッダは神様ではありませんから。
ブッダはほかの宗派を攻撃しません。宗派というものを絶対視するといろんな排他的な弊害が起こってきます。もともとそんな枠は必要ないのではないでしょうか。そういった意味でもブッダの教えは尊いものです。

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