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東洋哲学「荘子」 万物斉同 無為自然
今回は荘子について考えます。
荘子(荘周)は戦国時代の紀元前300年ごろ、宋の蒙(河南省商邱(しょうきゅう)県)に生まれました。漆を採る漆園(しつえん)の役人などをしていたようです。老子とともに老荘思想の中心を成しましたが、老子と同様に謎の多い人物です。その著作「荘子」においても本人と思われる記述の他に、後人の追加による思想などがあると言われています。しかしながら、「荘子」が後世に与えた影響は非常に大きく、私たち日本人を考えるとき、その中心的な思想の一つとして今もなお生き続けています。
万物斉同(ばんぶつせいどう)
斉という字にはひとしいという意味があります。
人生はいたるところで苦悩に満ちています。人々が欲というものから脱出することはとても難しいことです。
荘子は人間は、彼此、是非、善悪、美醜、生死などのさまざまな事象を対立として捉えています。人間の世界とは相対的な対立差別の世界です。
目の前にあるものに対する美しい、醜いといった価値判断は人間特有の相対的なものであり、絶対的なものではありません。私たちは色眼鏡で世界を観ています。
(美人の条件も歴史的に同じではなく、国によっても人によってもその価値基準は異なっています。)
無為自然
この色眼鏡をはずすにはどうすればよいのでしょう。
色眼鏡をはずすということは、人間の立場から離れることを意味します。
例えば、鳥や魚の目から人を見ることです。このように人間の立場から離れ、視点を変えてありのままの世界を見るということが必要です。これを無為自然と言います。無為は人為をなくすことであり、自然とはネイチャーという意味ではなく、自ずから然り、つまり、あのままの真相という意味です。
このような無為自然の立場に立てば、彼此、是非、善悪、美醜、生死などの価値の相対差別はなくなり、すべて等しい価値をもつことになります。これを万物斉同の境地といいます。
万有のはじめ
万物という言葉が出てきましたが、あらゆる現象の根本となるものは何なのでしょうか。
荘子によればそれは有でもなく無でもないといいます。それは有と無を包み込むようなもの、すなわち無限そのものであるとしています。
人間が差別の作為によって作り出したものが有限であり、作為を捨てた自然のありのままのすがたが無限そのものなのです。
私的には完全な無から物が生じることはないので、無限という考え方もできるのかなとは思います。
荘子のいう無為自然、万物斉同の境地というのは、有限の相対差別の人為を去って、みずからを作為を捨てた無限者の立場に置くことなのです。
参考文献
世界の名著4 「老子 荘子」 小川環樹 森三樹三郎 より
概論 老子と荘子