禁じられた本当の「和の心」への回帰(「春画先生」レビュー)
「革命前夜のロシア人がドストエフスキーを読んだ時の衝撃はこうだったのか――」かの文豪と比較するのはおこがましいかもしれないが、上映が終わってスクリーンから出た後は本当に脚がすくむ思いをした。今までのフィクションはどんなに素晴らしいメタファーや教訓があっても現実とは切り離された空想物語でしか無かったが、今作みたいにこれほどスクリーンの向こうから「これはお前たちの話だからな!」と胸ぐらを掴まれた思いに駆られたのはこれまで一度も無かった。
映画の開幕、(作中で)地震が起きるのだが、誰一人としてパニックを起こさないあたりがある意味日本らしくて可笑しい。しかし、この映画はまさに映画界にとって激震そのものであることは、今作が本邦初の無修正春画の映画であることから察しはつくことだろう。
そもそも春画というものは「笑い絵」とも呼ばれ、江戸の庶民に親しまれるものであった。ところが明治になって以降は急激に取締の対象となり、性に親しむ精神性も春画ともども歴史から葬り去られた。事実、日本で大々的な春画展がほとんど開催されていないのが良い例だ(かの大英博物館でも開催されたというのにだ)。
いまや世間で喧伝される「日本の精神」というものは「ブシドー、ワビサビ、ゼン」といかにも質実剛健なものであるように吹聴されているが、誰もそこに「エロス」を付け加えようなどとしない。そして今、自ら目を背けてきたもう一つの「日本らしさ」に踏み入れる時が来たのだ。
序盤では"春画先生"こと芳賀一郎による春画レクチャーが始まる。その解説も非常に丁寧でうんちく臭くなく、春画に隠された技巧や遊び心を教えてくれる。芸術鑑賞に疎い私でも「あ、なるほどな!」と膝を打つような発見に満ちており、知的好奇心を非常にくすぐる一場面だった。
しかしこれはただの準備運動。この先に待つメタファーを汲み取るためのウォーミングアップでしかない。春画の世界に酔いしれたヒロインはもう突っ走るのみ。貞操観念の蛇口が壊れたように性欲に満ち満ちた乱痴気騒ぎを見せつけてくれる。
というか周りの人間もそんな奴らばかりで、春画を巡って愛憎劇を繰り広げるのだがこれが実に痛快で、ドロドロな肉体関係なのにユーモラスで見ていると顔がほころんでくる。そこには人間が元来持ち合わせる生命力がみなぎっており、まさしく令和版の春画とも言うべき光景が全編にわたって繰り広げられてゆくのだ。
そして最終盤、隅田川を歩くとある男の台詞でハッと目を見開かされた。「先生の春画大全が完成すれば日本の歴史は大きく変わる!」と。
結局、「春画大全」なるものがどういうものか作中では殆ど語られないが、これは明らかに我々に向けたメッセージなのだろう。これ以上、「性を穢らわしいもの」として忌避し、禁欲的な社会を続けていても後が持たないと。今こそ本当の意味での人間性に回帰する時が来たのだと。
薩長同盟が起こした明治維新以降、日本は富国強兵を掲げ、薩摩武士よろしく勤勉でストイックな社会を築いてきた。ところが「強兵」の夢は第二次世界大戦で潰え、「富国」の幻はバブル以降に霧散したことは皆さんも身をもって体験しているはずだ。残ったのは抑圧によるアドレナリンの魔法が消え、性根尽き果てた人々だけである。
しかしこの映画を見れば、性というものが我々人間にどれだけ根ざしており、生命のエンジンに火を点ける秘薬であるかということが分かるはずだ。今や日本に限らず、世界中でもっともらしい理由を付けて人間的喜びを抑圧しようとする風潮が蔓延している。この映画は、そんな世界に対する爆弾のような挑戦状なのである。
エロスに限らず、今の社会は「ホンモノ」を渇望しているように思えてならない。もしかすると明治以来の変革は近いのかもしれない。そしてそれが血に塗れた「革命」ではなく平和で華美な「ルネッサンス」であることを願いたい。
創作者の端くれである私も、少しでもその一助になれるといいのだが。