『みなに幸あれ』を考察しながら感想を書いてみます
アマプラで『皆に幸あれ』を観たので、考察を交えながら感想を短めに書きます。ネタバレ気にしていません。
どんな作品?
久しぶりに生家である祖父母の家を訪れた主人公(演:古川琴音)が、幼い頃より抱いていた家の違和感の正体を暴くことで、家族の“幸せ”が揺らいでいく様子と、失った“幸せ”を取り戻すまでの顛末を描いた作品です。
ジャンルとしてはホラーなんですが、大して怖いシーンはありません。ちょっとグロめのホームドラマです。
演技・演出で特に気になった点
とにかく雑な作り、という印象が強いです。
一番気になったのは、祖母役の棒読みにしか思えない演技。祖母のセリフがある度に気持ちが途切れてしまい、なかなか話が入ってきませんでした。
次点は伯母の演技。そういう演出だったのかも知れませんが、誰に向かって話しているのか分からない顔の向きとか、主人公が斧を振り下ろす間に丸太の位置に頭部を差し出す瞬間移動とか「ホラーだから!」で許される不自然の範囲を超えていました。
本作の舞台設定について
登場人物全体における方言や訛りの分布が歪なところも気になりました。おそらく九州地方の村落が舞台だと思うのですが、祖父母の訛りはごく弱く、幼なじみはほぼ標準語なのに、その父親はまあまあの方言を使い、近所のおじさんはだいぶ訛り強めと、世代のグラデーションとか環境要因のコントラストがない斑な分布になっていて、めちゃくちゃ不自然です。狙ってそうしたとは思えません。とにかく雑で不自然。
また、伯母の行方を捜す一連のシーンで、主人公は基本的に徒歩移動でした。山の中風の暮らしぶりではあるものの、1日かからずに徒歩で往復できる程度の距離に住んでいるにも関わらず、行方知れず的な扱いになっているのは不自然です。実際にはみんな居場所を把握しているけど、関わりたくないから素知らぬフリをしている、という設定でもあったのでしょうか。やや雑。
幸せシステムについて
“幸せ”システム自体は、古くは『オメラスから歩み去る人々』に代表される在り来りなものを家庭レベルに落とし込み、それが世界中に在るものとしているに過ぎません。しかし、いまいちルールが厳密に設定されていないように見えました。
システムに反対して家を出た伯母が独自に“幸せ”を導入していた(せざるを得なかった)一方で、世帯を独立している主人公の家族(父母と弟)には“幸せ”がいない様子で、実家の“幸せ”を享受していたようです。つまり、システムの動作要件がブレているのです。世帯主の意思により分断できる、とすれば解決しますが、そうなると「サービス提供者との契約」に近いシステムになってしまい、単純に“幸せ”を導入しているだけの描写とは整合しません。だいぶ雑。
家族関係と幸せの重要度について
なんというか、主人公に対して彼女の両親の距離が開きすぎていませんか?
複数の幼なじみがみんな“幸せ”システムについて知っているのに、主人公にだけ何の説明もしてこなかったり、弟が出血している状況なのに心配するどころか嘲笑いながら完全放置ですよ。幸せ漬けになると家族愛が薄くなるのか?(この理由については後述します)
また、家の“幸せ”が損なわれたにも関わらず、慌てる様子もなく、
「アンタ代わりを連れてきなさいよ〜」
と、ニヤニヤしながら言いますかね。それならそれで一家全滅するだけ、という諦観でもあるかの如き態度に終始していました。にも関わらず、主人公が新たな“幸せ”の獲得に苦戦しているとみるや、独自に勧誘していました。それを破談にされても別段怒るわけでもない。重要なのかそうでもないのか、ハッキリしてくれませんか?
このように、本筋とは関係ないところの設定とか演出とか演技の粗が目立ちすぎていて、常にアマチュア作品を観ているような気分でした。
鑑賞後に映画.comで、監督の商業デビュー作だと知り納得。こちらが期待しすぎた、というわけです。
その他にいくつか考察
そもそも、どうしてこのタイミングで主人公とその家族は祖父母の家に集まったのか?というきっかけについて。
おそらくその理由についても、主人公には伏せられていたものと思いますが、これは祖母の出産に立ち会うため、以外には考えられません。
なぜ主人公は疎外と言えるほど何も知らされないのか。これは、「跡継ぎでないから」ではないでしょうか。年の離れた弟は長男であることから、だいぶ甘やかされている様子です。イヤな田舎のステレオタイプですが、第一子が女である場合、いったんは溺愛されるものの、次に男が生まれると疎外が始まる事があります。程度の違いはあるでしょうが、主人公の父母はその口だったと考えられます。
なぜ祖母が出産!?については、“幸せ”の一環と言えるでしょう。繁栄のための生命力が供給され続けるのか、“幸せ”を更新した直後の効果なのか。(主人公の父母から今回までずいぶんと間が空いている、という雑さはもう置いておきましょう)
そう考えると、主人公とその弟の年齢差にも得心がいきます。
ところで、祖母が祖父の指をしゃぶるシーン、あれ本当は男性器をしゃぶるシーンだったんじゃないかと思っています。商業映画でそれはマズい!となった末の代替案が指フェラだったのでは。
ラスト付近で、主人公の背後で老人を手助けする若いカップルが出てきます。序盤では主人公が老人を手助けしていましたが、そのシーンでは気を払う素振りもありませんでした。この変化については、システムへの適応度が上がったためだと考えています。他人を助けることで得られる自己満足的で細やかな幸せよりも、システムから自動供給される幸せをより大きな幸せである、と認識している今、他者への興味が薄れてしまっているのでしょう。これが家族の距離感や愛情についての違和感の正体だろう、と推察しています。
【追記】
ラストに出てきた、主人公の恋人の家の近隣住民の女性ですが、彼女はおそらく主人公の恋人の幼馴染で元カノです。それを、主人公の”幸せ“パワーが勝ることで略奪されたのでしょう。挨拶にくることを恋人の母親あたりが近隣に吹聴していて、やってきた主人公に悔しさをぶつけようとしたものの、主人公に優越感を与えただけでした。あの家にも新鮮な”幸せ“があればそんなことにはならなかったのでしょうね…。
最後に
「時間をかえせよ」とまでは言いませんが、「また見たい」とは思えません。本来このように考察する場合、少なくとも3回は見返して、気になる点をしっかり観察した上で記事にしていますが、今回は一度きりです。それであれだけの粗が思いつくのですから、お察しいただきたい。
とは言え、あくまでデビュー作ということを考えれば納得できる内容ではあるので、興味があれば観ても損はないだろう、と思います。
それに、一度しか観ていない故に的はずれな感想を持っているだけで、実は綿密に作られた作品である、という可能性も大いにあります。
個人的には古川琴音にとても期待しているので、今後のためにも観ておいて良かったな、と思っています。それではまた(了)