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客観的って何だろう?

中高生のためのオンライン哲学対話
テーマ「客観的ってなんだろう?」

2020年8月10日開催
まんのう町立図書館主催
杉原あやの(ファシリテーター)

 14歳から17歳の4名の参加者と、「客観的ってなんだろう?」をテーマに、哲学対話を行いました。主催は、まんのう町立図書館、ファシリテーターは杉原が務めました。
 箇条書きは、参加者の発言を示します。丸カッコは杉原が補足した文章です。当日のメモを参考に、参加者の表現をできるだけ忠実に書くよう努めました。小見出しは、この文面作成の際に、杉原が書き加えました。
 当日は、哲学対話のルールを説明した後、テーマからどのようなことを思ったり、考えたりしたかを、言葉にして頂きました。

客観的ってなんだろう?

・客観は正しもの。自分の主観は間違っているかもしれないと思うと、客観的に見たらどうなのか、と考える。

・政治家の問題や不祥事で「第三者委員会」というものがあるけれど、当事者ではなく別の視点から正しいことを言う人が客観的な存在だと思う。



・客観的って言っても、誰かの主観なのではないか。他の誰かからの意見が正しく感じられているだけ。

・客観の中身が誰かの主観だとも言えるかもしれなけれど、違う見方もできるのではないかと思う・・・。客観的とは、特定の個人のことではなく、自分以外のみんなが考えていること。そして、その社会ではそれが正しいとされてしまうようなもののことではないか。

杉原の感想:
  第三者委員会(第三者的存在)の視点が客観的なものだと言えるのはどうしてなのでしょうか。ある集団の活動について、その集団の利害関係から離れて、別の集団(第三者委員会)が活動内容を吟味することにより、そのある集団の活動について、より客観的に判断することができると考えられそうです。けれども、その第三者委員会のメンバーを選ぶのはどういった人たちでしょうか。第三者委員会を選ぶためのまた別の第三者でしょうか。当事者以外の人に客観性を求めると究極的には、第三者を第三者にするための、また別の第三者が必要になるのでしょうか。このように考えていくと、参加者の意見にあったように「客観的だといっても誰かの主観である」ということになるのでしょうか。
 
 ここまでのみなさんの意見を聞いて共通点を見出すならば、客観的であることについて語る時、それは、自分以外の誰かであったり、第三者であったり、他者の主観であるということでした。「当事者」は、客観性を持ち得ないのでしょうか。「私」は私自身について客観的な視点を持ち得ないのでしょうか。


客観的事実

・客観的事実は、私情とか欲とかをふるいにかけても残るものだと思う。それでもなお、客観的事実の中に「私」という存在が含まれていることもあるのでは?(客観的なものの見方に自分という存在は含まれないのか?という杉原の質問に対して)

・その世界の常識や事実は、主観的な意見とか、人の意見とか、感情とかに関係なくある事柄ではないか。


  杉原:「客観的事実」という言葉が出てきました。確かにこの言葉はよく耳にするような気がします。誰がどう考えるか、誰がどう思うかに関わらなくてもある物事が、客観的なものなのでしょうか。それは一体どういうものなのでしょうか。


客観は想定されているだけ?

・自分の私情をふるいにかけた時に残るものなんてあるのかな?主観しかないのではないか。本当に客観的に物事をみることなんてできないと思う。

  杉原:客観というものは無いのでしょうか。客観があると想定されているだけなのでしょうか。

・主観には大きさがあり、それに対になる客観があるのではないか。例えば、自分一人が当事者になるとき、国が当事者になるとき、人類全体が当事者になる時など。人類にとっての客観は、人類以外のものだと思う。

  杉原:人間以外の存在も客観性を持っているのでしょうか。

・(私情などを)ふるいにかけて残るものはないかもしれない。けれども、例えば、太っちゃうけど、頑張ったからケーキを買おう、ということがあったとして、ケーキを買ったという出来事は、事実ではないのかな。


・客観的事実は、事実とは別。ある事件があって、その事件の事実を客観的にみたのは、客観的事実。客観的事実とは、そこに誰か人の立場がなければ成り立たないものとしてある。

  杉原:事実は事実としてあり、そこに誰かしらの立場があって、事実を捉える人がいて客観的事実とされるということですね。人では無い立場の客観はありうるのでしょうか?それとも、主客の問題は人間にとっての問題なのでしょうか。この世界に人間が誰も居なくなっても依然として主客の問題はありうるのかということも考えられそうです。例えば買ってきたケーキを誰がどう捉えているか、どう思っているか、ということとは独立してケーキは存在しているのだろうか?買ってきた本人が居なくても、ケーキはそこに存在しているのだろうか。ケーキは客観的な存在なのだろうか。

・客観はないのではないか。自分がいるからこその主観、自分がいるからこその客観。自分がいて認識するということがなければ主観も客観もないのではないか。

 

 杉原:自分自身が何かを認識する主体として在って、その私が何かを認識するのでなければ、そこに主観も客観もないという意見。「私」が居なければ、主観と客観が無いのならば、「私」という存在は間違いなく存在しているものとして前提にされていることにはならないのでしょうか。


・(杉原の質問を受けて)自分の存在は1番の主観。自分がそこに存在していると認識しているから自分がいる。自分が世界から認識されているかとは別の問題。自分が世界から認識されているかどうかなんて確認しようがない。

・(人間全てが居なくなったら、客観はどうなるか考えたとしても)認識って考えるとこのペンの立場があって、このペンにとって自分は意見をいうことができる。物質的な客観がある。この物質はこの物質にとって客観的な意見を持つことが出来る。人間の脳とか意識がなくても物質的な立場がある。

・客観といった時に、(私たちは)小さな世界を想い描いているのではないか。その中で、これは主観、これは客観だと捉えている。捉える人がいないと物事は成り立たない。

・僕が人間として感知できることは、数字で、それは再現できるかもしれない。物理法則とか科学とか実験とか計算して出てきたもの。重力など。そうしたものも人間が実験したり計算して捉えたものだから、それは人間の主観だと言えるといえば言えるかもしれないけれども、それぐらいは客観的なものだと考えていいのではないか。

この世界を認識しているのは誰(何)か?

 参加者に今までの対話を踏まえて、後半にどんなテーマで話し合いたいか「問い」を作ってもらいました。参加者が提案された複数の問いから投票で絞ります。一番多く票が入ったのが「この世界を認識しているのは誰(何)か?」という問いでした。


・主観が全てだと考えている。主客の問題を考える時に、前提として、私たちは、小さな世界を想定している。それを考えている自分、それを捉えている自分という主観に全てが還元される。もしも客観があるとするなら・・・自分たちがいるこの世界を私たちではない何かが捉えていると考えると、その何かの主観が私たちにとっての客観になりうるかもしれない。しかし、それは証明することができないので、結局は主観が全てだと思う。

・(前の意見を受けて)仏教的な立ち位置だと、仏様とか神とかなのかな?人間じゃないから対話することもできない。人類じゃない何かが世界を認識しているということについて非現実的だと感じる。

  杉原:私たちは猫や虫を認識しているけれども、彼らは自分たちが私たちに認識されているということなど思いもよらないかもしれません。私たちが彼らをどう認識しているか、などということは、彼らの在り方にそぐわないかもしれないのかもしれません。ところで、人間とそれ以外の存在は対話ができないのでしょうか。私は猫と暮らしていますが、私と猫の間には何もないのでしょうか。

・この世界(私たち?)よりももっと大きな存在が、私たち(を含む世界)を認識しているとしても、それを僕たちの側からは知ることができない。単にその存在者が自分の存在を明かしていないだけかもしれないが、(証明できないので)結局自分の主観しかないと思う。

・自分たちが認識する側になることはある。例えば、漫画を描けば、自分は漫画の登場人物を認識している。自分の存在を漫画の登場人物に知らせることはできるかもしれない。

 杉原:漫画の登場人物が自身の創造主の存在に気がつくという設定を設けることができるという意味なのでしょうか。創造主は、創造主の存在を知ることができる能力を登場人物に与えているのですね。

・この世界を認識しているのは一人ではない。複数人いると思う。人間の中で客観というものは、集団が作り出したもの。自分一人の主観があったとしても有用な客観は生まれない。複数の主観があって、そこに共通するものがあるから客観がある。

・自分が生まれた瞬間にあらゆる事物が存在することになる。自分が捉えているから周りの事物が存在する。最初から何かが存在しているということはないと思う。自分が死ぬと同時にあらゆるものは無くなる。

・共通して認識している客観ってなんだろう・・・・。客観的なものを共有できているのかな。共有できていると思っているだけなのかな。人と話す時、共有できていると思うんだけど、共有していると言い切れないなと思った。

・第三者が客観だとすると、僕は一者だと思う。一者が見たものは主観的なものであって、第三者にはなり得ない。

・自分の中にある客観的なものの見方というのもあるのではないか。そうだとすると、簡単に「自分と自分以外」には分けられないのではないか。

・自分自身を客観的に捉えるとしても、あくまで、主観的な客観だと思う。本当の客観は、自分自身には手に入らない。そこには主観しかない。最初は、「主観が間違っているかもしれないので、客観的にみたらどうなるか」と考えたが、それは自分の中で他人(の視点)を想定して自分自身について考えているに過ぎない。客観的にみてどうか、という表現を使うことはあっても、本当の客観ではありえない。


哲学対話を終えて

 「主観的なものよりも客観的なものの方がより正しい」という考えを前提としているような発言はいくつかあったと思います。「主観・客観」の問題に真偽の問題が関係していることが面白いと思いました。なぜ私たちは、主観よりも客観をより正しいものだと思うのでしょう。

個人的に内省する時にも、客観的にみたらどうなのか、と自分自身に働きかけるのだとするならば、その時、私たちの中で何が起こっているのでしょうか。なぜ私たちは、そのように自ら働きかけるのでしょうか。もしもどこまで行っても主観しかないのであれば、客観的に自らを考察しようとすることがどんな意味を持つでしょうか。

 「主観しかなく、自分の誕生と共に、全てが存在し、自分の死と共に全てが無になる」という考え方を、とても興味く思いました。発言者ご自身が、「自分の考えは極論だが」と前置きをされた上で言われた「他者の存在さえ、自分の主観だ」という考えも、発言に一貫性があると感じました。主観・客観の問題について「認識する主体」を前提におかれた発言だと思います。
 けれども、その認識する主体が何かを認識することで、その何かが存在するということになるのならば、そもそも認識が向かう矛先となる対象物があらかじめ存在して居なければ成り立たないのではないか、という疑問もわいてきます。

 「自分たちにとって客観があるとしたら、人類以外」という意見と、「もっと大きな存在が自分たちを認識しているとしたら、その何者かの主観が、私たちにとっての客観ではないか」という意見には、何か共通のものを見出せそうな気がします。また、「物質的な立場」という表現もありましたが、これも少し気になっています。

 てつがく屋の哲学対話では、参加者の皆さんに「途中で意見が変わってもいい」とお伝えしています。参加者の方々は、対話の最中に、思いつかれたこと、新しい視点を柔軟に言葉にされることが多いです。自分の意見を変えることに抵抗感なく、むしろ、次々に湧いてくる考え方を言葉にされていました。その豊かな発想力が哲学に大切なものだと思います。
 今回の参加者には、ご自身の主張に一貫性を持たせようとする態度で臨まれる方がおられて、その態度にもとても真摯なものを感じました。一度は大きく考えを転換させつつ、最終的には、前半に出された自らの意見を、後半のご自身の導き出そうとする論理で説明可能なものだと、自ら修正されました。対話を通して考えながら、一つの結論を導き出そうとする態度が感じられました。他の方の意見を真剣に受け止めつつも、ご自身のなかで一つの結論を導き出そうする過程のなかに居られたのではないでしょうか。
 よく「哲学は答えが無いものだ」と言われることがありますが、私はそうではないと思っています。哲学者たちは、「なんだってあり」ではなく、何らかの結論を出そうとしてきました。もちろん、そうした哲学者たちも、結論を導き出す過程において、他の哲学者や人生を取り巻く様々な出来事に影響されつつ考えを変化さてきたと思います。

 哲学対話に参加するなかで、もしも、気になることがあれば、是非、調べたり、本を読んだりして頂きたいと思います。何気げなく使った言葉も、改めて辞書を引いてみると面白いかもしれません。例えば、主観と客観についても、辞書を引いてみてください。「なんでだろう?どうしてだろう?」は、探求の始まりです。是非、その先へ歩みを進めてください。

 参加してくださった皆さまが、良き対話の場を作ってくださったことに感謝します。私も皆さんの対話から得た沢山の哲学的な問いかけを持ち帰り、長らく考え込むこともあります。私自身も、もっと哲学について学びたいと思える時間でした。

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