何も怖いと思わずに生きられる?
2022.04.02 飯山総合学習センターにて、小学校低学年12名の参加者が集まりました。
9割の子供たちが何も怖いと思わずに生きることなんてできないと考えたようです。 1名のお子さんは、「分からない」という考えでした。
「わからない」という答えも正直でとてもいいです。ファシリテーター杉原もみんなとこれから考えるところなので、「わからない」と書いた子に同感でした。
哲学の時間では、「わからない」と答えて、しょんぼりしなければならないことなんて、何もないのです。
オバケが怖い
沢山の子どもたちは、みんな怖いものの例として、オバケを上げました。
ところが、実際にはオバケを見たことがないのだとか。
「夢で見たことある。」
「お姉ちゃんが見たことあるって...」
「なんか、テレビとかで、オバケオバケっていうから怖くなるだけです。本当はいないかもしれな いけど。それは分からんけど。なんか出たら怖そうやなって、怖くなる。」
どうやら、私たちは、実際には経験したことがなかったり、見たことがなくても、怖いと思うみたいです。
「経験」や「知識」と「怖い」と思うことの間には、どういう関係があるのでしょうか?
一方で、本の中でオバケについて書いてあるのは、わざと面白くするために怖がらせるように書いているのだという意見もありました。
怖いのを面白がる人もいる?
「怖い」と「遊び」
遊んでいて怖い時はあるでしょうか。身近な経験談から議論を深めてみます。
「ブランコから落ちる時」
「鉄棒で前周りしたらガンって...」
「なんか痛くなるかもっていう時。自分の身に何か起きそう」
怖いと思うことで、わたしたちは身を守れたりするのでしょうか。
問いかけについて、「(身を守れたり)しないと思う...」「すると思う...」と、子どもたちの声が聞こえてきます。
怖いことは、必ずしも悪いことなのでしょうか?
怖いことがもたらしてくれるものは何でしょう?
危険から守ってくれる?スリルや面白さをくれる?
テーマの「何も怖いと思わずに生きられる?」に、9割の子どもたちは、「そんなの無理」だと言っ ていました。この「生きられるか?」には、特定の年齢に絞られていませんから、「生きてる間 ずっと何かを怖いと思うのかどうか?」という問いになっているはずです。本当にそうなのか、みんなと考えてみることにしました。
赤ちゃんが怖いと思うかどうか、そして、大人になっても怖いものがあるかどうか、次のような意見が出ます。
「赤ちゃんは知らない人を怖くて泣くけれど、泣く理由は、必ずしも怖いからではない。」
「大人になっても怖いものはある。」
「怖くなくなるものは、何かのきっかけで、逆に楽しかったってなるけど、ずっと怖いものは、 これはずっと怖いって思い込んどるんかな。」
思い込みという言葉が出てきました。怖いって思い込みなのでしょうか?
「怖い」と思い込んでいるだけだと頭ではわかっていても、それでもどうしようもなく怖いってこともあるのかな?それってどうしてでしょう?
怖いことって克服した方がいい?
怖くてできないことについて聞いてみました。
「包丁使うのが、まだ嫌だ。」
「危ないこと。針で服を縫ったりする。」
「なんか、散歩してたら、変な音したから、その道嫌いになった。なんか不気味な音したから、 なんかあるんかなって思って、そこもう通りたくないなって思った。」
それって克服した方がいいのでしょうか?
克服した方がいいというこの意見は、次のとおりです。
「大人になってからでも克服できると思うから、まだ大丈夫です。」
「私は、包丁を使うのは、大人になってからよくすることだから、今のうちに克服しとったほう がいいと思う。」
克服するかどうかの問いかけに、悩んでいる子がいました。
「無理しなくても・・・」と聞こえてきます。先ほどからずっと、無理に克服するということについては抵抗を感じているようです。
「私はどちらでもいいと思う。例えば、散歩に行くなら、そこが絶対通らないかん道やったら克 服したほうがいいし、どこにでも道があって、別の道を通ってもいいんなら、別に克服せんでも いいと思う。」
ファシリテーター杉原の問いかけは、二者択一のようになっていました。その問いに対して、難色を示していた女の子は、自分の中に抱いた違和感を大切にしています。
会社に行くのが怖くてもいい?
会社に行くのが怖い人がいたらどうしましょうか?
「それは、克服したほうがいいと思う」
その理由について他の子が答えてくれました。
「会社に行かなかったら、お金が稼げない。」
お金が稼げなくて、問題になってくるのは何なのか、また別の子が手を挙げます。
「生活ができない!」
「でも無理に行ってもいかんかもしれん......」そんな声が聞こえてきました。もう少し聞きたい 気になる意見です。
何かを無理に克服することに強い違和感を感じている子です。
他の子が手を挙げます。
「その会社だけが嫌なら、他の会社に行けばいいかもしれないし、それでも嫌だったら、他の人 に頼んでやってもらう!」
この意見が、無理に克服することに違和感を感じつつ手を挙げられない様子だった子を触発した ようです。
「何で会社に行くのが嫌なのかを考えれば、解決する方法ができるかもしれない!」
実は、「AかBのどちらなのか?」という質問のあり方自体が問題を含んでいる場合があります。 子どもたちは、自分の感じている違和感を大切にし、また自分で考えて意見を言いました。
哲学的思考には、「誤った二分法を避ける」というルールがあります。 誤った二分法とは、複雑な物事を単純なAかBかに分けて判断してしまうこと。複雑な物事を複雑なまま思考するには、辛抱強くじっくり考える必要があります。 じっくり考えるのは、大変なので、ついつい、誰でも極端で単純な答えの方に飛びつきがちになってしまい ます。AでもBでもない、第三、第四の意見を考える発想力も試されます。
子どもたちの対話はまだまだ続きました。
最初は、オバケに殺される可能性があると思うか、という質問に対して、ほとんどの子が手をあげ ていたのに、今度は、自分達を殺さないオバケがいると思うかという質問に、全員が手を挙げま した。
優しいオバケがいるかもしれないなら、会ってみたいというのです。
ということは・・・優しいオバケがいるかもしれないから、オバケが絶対怖いというわけでもない・・・つまり、殺されるということが怖いのでしょうか?
「確かにそうかもしれない!」
「結局そこにつながる。」
まだまだ子どもたちの哲学対話は続きましたが、この辺りで終わりにします。
みんなの発言で、話題はどんどん広がっていきますが、繰り返し最初のテーマ「何も怖いと思わずに生きられる?」に立ち返りながら、「怖い」とはどういうことか、について考えました。