【第3話】ステキな言葉も行動のワンシーンと紐づいて意味をつくる、という話。
ある程度、自分自身の頭で考えられるようになり、かつ、感受性も豊か。そんな感じで、自分の価値判断ができるようになる20歳前後の経験は、人の基礎にもなっていくような気がする。僕もそうだった。
当時の僕は、どうしても海の向こうにある日本とは真逆、もしくは、文化的に異国だと言われていた世界に行ってみたい気もちが抑えられず、フランスで独り暮らしをすることになった。その切符を手にする(誰からも文句を言われない)ために上智大学外国語学部フランス語学科に入学したようものだ。日本を出発して丸2年、向こうの文化やライフスタイルに漬かった。街のそこら中のカフェでは、老若男女問わずふつうの人たちがロジカルに議論をしていたかと思うと、突然、詩人のようなフレーズを並べ始めたり、急にエモーショナルな表情になったりしていた。その隣では恋人同士が甘い言葉をささやいていた。ロジカルとハート、論理と感覚、理性と感性、哲学と文学。相反するふたつが常に交差し混ざり合う国の人たちは、やはり、違っていた。
忘れられない人が何人かいる。フレール・テクシエ。牧師にして哲学の教授。小柄で眼鏡の奥にいつもは優しい、ときにとても鋭い目をしていた、知性と人間味の溢れる人たちだった。僕は本当に彼から多くの、そして大切なことを学んだ。1991年の5月ごろだったか、たいしたことでもないのだか、僕にとってはちょっとした嬉しい事件が起こった。
いつものように、授業の合間に当時大好きだったオランダ人の友達とキャンパスでたわいもない立ち話をしていた。すると、30mぐらい向こうから小走りでトコトコトコと小走りに歩いてくるスキンヘッドの小柄な人が視界に入った。フレール・テクシエだった。いつもの優しい感じとは違う鋭い目が50cmの近さまでやってくる。魔術師のような趣でゆっくりと僕を指差して、「Attention, il va très très loin, cet homme. Très tr très loin. 見てなさい、彼はどこまでも遠くまでいくから、本当に。」と彼女に言うやいなやニコッと笑い、またトコトコトコと小走りに去っていったのだ。僕らは目を見合わせて失笑するしかなかった。それからというもの、僕はその嬉しい事件を思い出すたびに、「僕はいったい遠くまでいけてるのだろうか?突き抜けていられてのだろうか?」と自問しては、どんなに嫌なこと、大変なこと、悲しいことがあっても、前と上を向いて歩いていたような気がする。本当に不思議なものだ。彼の無責任にも思えるその抽象的な言葉の意味が、具体的には何なのか?を、その後の人生を通じて追い求めているような自分がいる。「そこそこ遠くに行けましたか?」今日も彼が僕に問いかける。そして、自分だけに聞こえる声で応える。「いやいやまだまだぜんぜん。この先を行けるとこまでいこう、今まで自分も経験したことのない速さで。狂え、自分。」そのまだ見ぬ遠くに行く旅は道半ば。そして、僕はまた前を向くのである。そう、いつものように「狂え、自分」と鼓舞しながら。
その彼が教えてくれたことで、その後、僕のポリシーになったことがある。彼はよく哲学や道徳の話を、いくつもの具体的な例を交えて話してくれた。その例え話はまるで映画のワンシーンのようなもので、すっと頭に入ってきていた。僕たちはみんな、彼の話に引き込まれていた。彼が時には遠くを見るような眼差しで語るいくつかの話を聞くと、本当だったら禅問答のような難しい抽象的なこと(概念)も、いつの間にか理解できていたから、当時の僕たちにとっては不思議そのもので、魔法にかけられたようだった。
例のごとく、フランスでは「愛」について語られることが多い。フレール・テクシエの授業でも「『愛』の意味はなんだかわかるかね?」なんていうシンプルだけど答えに困るような質問を学生たちに投げかけることが多々あった。そんな時に彼が引用する例え話は、文学に出てくるワンシーンだったり、有名人の話だったり、、、いろいろな具体例をもとに、抽象的な概念の本質をズバッと突き刺すような感じで、僕たちに話をしてくれた。彼が良く引用したのは、たとえば、「星の王子さま」の著者として有名なサン・テグジュペリだったり、実存主義の哲学者のジャンポール・サルトル、十字架に括られるイエス・キリスト、ローマ教皇やマザーテレサなど、、、多彩だった。
サン・テグジュペリは「夜間飛行」の中で、「愛、それは見つめ合うことではなく、同じ方向を向いて一緒に歩いていくことなんだよ。」と説き、「星の王子さま」では、「そのバラがあなたにとって世界で唯一な存在になったのは、そのバラにお水を注ぐために、毎日毎日、あなたの時間を犠牲にしたからなんだよ。それが僕が君に教えたかった秘密さ。」とキツネが仲良くなった星の王子さまに教えている。また、ジャンポール・サルトルは、「実存は本質に先立つ」なんて難しいことを言いながら「S'inventer soi-meme. 自分自身を自分で発明する」ということを言っている。自分の人生は自分自身で創るものだということなのだろうか、、。そんな話をフレール・テクシエは僕たちにしていた。
彼は同時に、小学生低学年でもわかるような、わかりやすい例も話してくれていた。「2歳児のよちよち歩きの男の子が大雨の後、増水した河のほとりを歩いていて、足をすべらせて川に落ちてしまったとしたら、、、横にいる母親は、誰かの助けを求めますか?いや、すぐさま川に飛び込んでその子を救おうとするでしょ。」という話だったり。「マザーテレサはね、言葉少なく、助けを求めている人のところに自らが行って、そっと寄り添うんだよ。ただそっと寄り添うだけ。」という話だったり。そんな話を聞くとマザーテレサの言葉も良く理解できたものだ。「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」この言葉も彼女の不断の行動があったから意味が生まれる。
そんな感じで具体的な話、それは誰かが行動をしていたシーンなどがふんだんに盛り込まれた話であることが多かったのだが、その話を通じて彼が伝えたかったことは「行動の大切さ」だった。「抽象的な概念も、ステキな言葉も、それに紐づいた行動があってこそ、意味をなすんだよ。」ということだった。たとえば、「『愛』というものも行動でしかなく、行動がすべて(愛)の意味付けする。行動が伴わない(愛の)言葉には意味がなく、行動を伴った(愛の)言葉は意味がある。行動があれば、言葉(愛)は広く深く伝播する。」という具合に。確かに、キリスト教も十字架に括られて殺されても構わない信仰心があったから聖書の言葉が意味をなしているように思える。そして、彼は「共感しあいながら、それぞれの自己犠牲も払い合いながら、同じ方向を向いて、一緒に絶えず歩いていけたら、愛に溢れた幸せな人生になっていくよ。」という話をしてくれた。
「愛」ってそんな感じなんだなー。ということを知り始めた21歳の頃から、僕はどちらかといえば不器用さが際立っていったような気がする。そして、突拍子もないこと、人とは違うことを、思い切りやっていく道を突き進み始めた。
1993年に社会人になって以来、幾度となく彼の話を思い出すことがあった。いくつもあるので、何をここで書こうか、、、迷う。一番か二番か三番に思いだすのは、T&Gで仕事をしていたときのことだ。「いい人だ」と心から思える仲間たちがたくさんいた。創業オーナー社長(今は会長)の野尻さんも大きく深くそして温かい愛のある人だった。そして、彼を支える親衛隊のような社員の人たちも、本当にいい人ばかりだった。僕はいわゆる外様として創業3年がたったころ、マザーズ上場直後に入社していた。電通を飛び出してサイバーエージェントで常務取締役をやらせていただき、畑違いのブライダルの会社にジョイントした。周りからは狂ってると思われたんだろうな。いきなり「営業統括本部長」だったので、いろいろと大変だった。「現場もわからないのに、、、」「ウエディングプランナーしたこともないのに、、、」という自分よりも若い人たちがほとんどな社員の彼ら彼女たちに、はじめはそんな目でみられていたんだろう、、、。ロープレができないと認められない。新規の問い合わせの電話をとって、電話の向こうにいる新婦様と10分ぐらい話し込むことができないと白い目で見られる。レストランウエディングのチームの電話がなり、電話をとれる人がいないときは、本当はドキドキしていた。電話の5番目のボタンが赤く点滅して、その電話に出ると「はい、お電話ありがとうございます。リバデリエトゥルスキーブライダルデスクでございます。」3番目のボタンが赤くなり、その電話に出ると「はい、イルブッテロでございます。」と元気に電話にでるところから始まるのだった。「どうして、イルブッテロにはブライダルデスクっていう言葉はつかないのだろう?」と質問したが、「そういうものなのよ!」年下だが迫力満点のウエディングプランナーのKさんに一蹴された。「行動がすべて、、、」僕は深夜2時~3時に浸かっていた湯舟のお湯の中で毎晩毎晩、早口言葉のように「リバデリエトゥルスキーブライダルデスクでございます。」舌を噛まずに言えるようになろうと、意味など考えずに繰り返した。オウムのように。
そうこうして、電話に完璧に出ることが1週間ぐらいでできるようになった土曜日のことだった。例の5番目のボタンが赤く点滅した。その場にいたのは、あの、年下だが迫力満点のKさんだった。「チャンス!」と思い、早押しクイズのように受話器を取った。彼女からは睨まれた。「下手が電話に出るんじゃないわよ。」といわんばかりの視線を感じた。僕は、「はい、お電話ありあとうございます。リバデリエトゥルスキーブライダルデスクでございます。」と電話に出た。その後は、「オウム返し」の術を多用しながら、受話器の向こうの新婦様のことを深堀して聞いていった。電通時代に習得した定性調査のラダリングという深堀してヒアリングするデプスインタビュー手法を教えてくれた先輩に感謝しながら。約11分後、無事に新婦様からご来場見学のご予約をいただき、僕は電話を切った。笑顔よりもほっとして深呼吸だった。一部始終を見ていないようでよく見ていた彼女がどのようなアクションをするか、、、ドキドキしながら目を向けると、「美濃部さん、ブラボー。いい感じー、いい感じー!」と一言。その時のことはほんと今でも忘れなれない。そういう小さな嬉しいこともありながら、いろいろと本当にいろいろとありながら、「行動がすべて」ということの積み重ねをしているうちに、僕の言葉に耳を傾けてくれるメンバーが、ひとり、また、ひとり、、、と増えていった。
当時のT&Gは急拡大時期で、毎月のように結婚式場を全国の地方都市にオープンさせていた。毎月10~15名ぐらいのウエディングプランナー候補を採用しては、スキルやノウハウを身に着けながら、8か月後にオープンする。それが毎月。クレイジーなぐらい熱かった。毎月社員が20名程度増え、お客様(結婚式)の数も毎月増えていき、5年弱の間に、僕が入社したころに70名程度だった社員が1000人を超え、売り上げも450億円を超えていった。毎日が安全ベルトが外れない止まらないジェットコースターに乗っているようだった。しかも、僕はそのジェットコースターの運転手の席に座っていたか、それに近いところに座ていた。社長からはよく、「結果がすべて」「結果を出してからものを言うようにしなさい」ということだったり、「語りすぎるな」「説明しすぎるな」という教えをいただいていた。「背中を見せろ」ということだったんだろう。僕はその姿勢を彼から学び、彼の大きさや愛の深さを強く強く感じていた。
大変だった。本当に大変だった。僕だけじゃなく、一緒にやっていた近しいメンバーも、現場で新郎新婦様と向き合っている支配人やウエディングプランナーの仲間たちも。ちなみに、T&Gの結婚式は、1顧客1担当制だった(おそらく今も)から、結婚式の演出が一組一組オリジナルにつくれた。だから両親や家族、そしてゲストの友人たちが「思いもしない瞬間」を体験するような結婚式をしていた。それを「うれしい裏切り」といっていた。そういう結婚式を生み出せるという実態(行動)があったので、そんことを言葉や映像で表現しようとCMもつくり、地方でテレビCM展開を狂ったようにやったこともあった。「いいウエディングには、小さな奇跡が溢れている。」というキーメッセージ。それは、みんながひとつになっていくメッセージにもなっていた。当時の僕は、事業面のすべてをまとめていかなければならないということもあって、やはり、行動で示すしかなかった。取締役は従業員ではないので働く時間は何時間でもよいということだった。平日は朝9時から深夜2時ぐらいまで仕事をして、金曜日の夕方6時ごろに会社を出て、地方に出張。金曜日の夜に福岡に入り、土曜日に福岡の2会場をまわり、その日の夜に鹿児島に行き、日曜日の夜に鹿児島から飛行機に乗り、羽田に着くのが21時半頃。それから会社に戻り、月曜日から始まる新しい1週間に備え2時ごろまで仕事をする。そして、新しい月曜日を迎える。それを1年に51週繰り返すような感じだった。休みは年末年始の4日。気立てのいい妻と晩ご飯を食べるのも年に4日。お客様のご自宅へお伺いすることなども率先してやっていた。
現場を実際みてお客様の1次情報に直接触れることができる、というのは、マーケティング上も良いことがいくつもいくつもあった。でも、それ以上に、営業統括本部長という機能をする上では、「次はこういうことをやろう。」という話をした時や「新婦様・新郎様がそれぞれのご家族と生きてきた27年間・30年間のなかにヒントをみつけて小さな奇跡をつくろう。」という言葉を発信したときに、信じて一緒に踊りだしてくれる仲間の存在が何よりも重要だった。僕自身は、「生まれ持った天性の」とか「育った環境に恵まれていて」という感じの、リーダーシップに長けた人間では全然なかった。むしろ、リーダーとしての立ち居振る舞いは不器用だったり、無理して演じることが必要なタイプだった。それでも、それなりにある程度は機能できたのは、言葉を信じてもらうことができたのは「圧倒的な行動量」があったからなんだと、振り返るとそう思う。
最後に、とても嬉しかったエピソードを3つ。1つは、「あいつ、ばけもんみたいだな、と社長が言っていましたよ。」そんな話を、社長の親衛隊のような社員のひとりから、だいぶ後に聞いて知った時。うれしいのと同時に、僕にはそんな言葉を言わずに周りに言ってくれていたんだなということを知って、「この人(社長)は、行動の人で、ほんとうにかっこいいなー。」と思った。2つ目は、業績が市場の期待を下回ってしまった時の株主総会での出来事。当時、経営企画部門を管掌していた僕は、株主様から「美濃部さん、あなたが入社してから今日にいたるまで何をしてきたのか、立って説明してもらいたい。」ということになり、僕は起立してマイクをもって入社してからの5年間の話をした。総会の会場には80名ぐらいの方々がいらして、、、、何分間話したのか記憶にない。直後に社長がフォローをいれてくれた。「彼は地べたを這える人間です。」その後、小さな奇跡が起こることになる。最後列に近いところにいた株主様が「はい!」と手を挙げた。僕は一瞬うつむいた。「もう勘弁してください。。。」という気持ちもあったが、すぐさま果敢にその人の方を向いた。「私は、この場で発言するつもりは一切なかったのですが、、、どうしてもお伝えしたいことがあって、、、実は私は、T&Gさんとお取引をさせていただいている会社の社長をしています。いくつかの会場でお世話になっています。私は、美濃部さんが現場で走り回っている姿を何度も見ています。数年間その姿を見ています。だから、この会社は大丈夫です。」と言って、彼は座席に座ったのだ。うっすらと拍手が沸き起こる中で、僕は、痛くなるぐらいに喉の奥が締め付けられ、涙をこらえるのに必死で、、、深々と頭をさげることが精いっぱいだった。僕はその取引先の社長さんとは、挨拶を何度か交わしたくだらいで、一緒に食事をしたこともなければ、何か話し合ったことさえなかった。嬉しかったことの3つ目。もしかしたら、一番うれしかったことなのかもしれない。僕には、毎週金曜日の午後のルーチンがあった。それは、週末に2件以上の担当パーティー(披露宴)があるウエディングプランナーひとりひとりにオリジナルのメッセージをメールで送るということだった。ひとりひとり、その人が今どのようなことを頑張っているか、どのようなことで困っているか、どのようなことがあって嬉しかったかを調べた(正確には、腹心的な仲間に調べてもらった)うえで、パーソナルな内容を添えて、「頑張ているって、支配人の〇〇さんやエリアマネージャーの〇〇さんから聞いてますよ。お客様のためにありがとう。今週末がんばってくださいね。身体に無理しすぎないように。」というやつだった。ついつい1通に10分ぐらいかけていた。20人いれば3時間ちょっと。30人いれば5時間。僕は毎週金曜日の午後6時ごろ、そのメールを書き終えてから地方の会場の視察の出張へ旅立っていた。夜に出張先のホテルでパソコンを開くと、メールを送った先にいる人の何人から返信が来ていた。そのメールの最後は「いつも見てくださって、ありがとうございます。私(僕)、頑張れます!」というので終わっていた。「見ていてくださって、ありがとうございます。」そう、僕は、、、そんなに大したことができていたわけではない。近いところも遠いところも距離とは無関係に、見にいくことしかできていない人たちが、いっぱいいた。「見ていてくださって、ありがとうございます。」この言葉があったから、僕は年休4日を5年続けても風邪すらひかなかった。
まだまだ書きたいことはたくさんある。思い出すと、走馬灯のように思い出すことが溢れてくる。でも、すでに長い文章になっているから、今回はこのあたりでやめておかないと、、、僕は今、マーケティングやブランデングの仕事をしている。データーの際にある人の喜怒哀楽が見るようにする。言葉を紡ぐ前に、そのことに関わる人を見に行く、話を聞きに行く。時間を費やす。無駄になるかならないかなんて考えずに、一見、非効率なぐらい時間を費やす。そこから生まれる言葉は強い。意味を醸し出す。誰かに信用されたいと思えば、話をする前に、語る前に、まず動いてみる。クライアント様に会う前には、その商品やサービスを使ってみる、売っているお店に行ってみる、使っている人にあってみる、、、それは、不思議と伝わるもの。同じ言葉を使って話をしても、行動があるのとないのでは伝わり方が違う。言葉ではなく「意味としての会話」がなりたつのか、成り立たないかの差が生じる。共鳴し合うキーワードが似てくる。
このnoteの中で、近いうちに、僕がお手伝いさせていただいたブランディングやミッションステートメント作成の話もしていきたいと思います。長い文章でしたが、読んでくださってありがとうございます。もしよければ、次回の第4話も、読んでいただけら嬉しいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?