千葉to神奈川、工業地帯を見てみよう①
千葉市の工業地域化
はい、いつもの町歩き記事。最初はまたまたチーバ君のネタです。
かつて、チーバ君の体の中に入る虫として、房総半島を駆け巡ってみましたね。千葉についての旅行の記録、決してチーバ君をDisっているわけでなく、チーバ君にたとえたら、とても僕好みの表現になるからです。チーバ君ファンがいたらごめんなさいね。
今回は、千葉の海沿いの変貌を見てみよう。
チーバ君の喉元が、フルメタル・ケミカル(鋼・化学)化していく様子です。
今回は、長い歴史を持った千葉市。長い年月で皺枯れた(しわがれた)、チーバ君の喉元が、フルメタル・ケミカルに改造されていく様子です!
千葉市の歴史
むか~し、むかし。
原始では千葉の海沿いはほとんど海で、おそらく今の千葉市あたりもそうだと思われます。
やがて、天皇により統一されると、房総半島の北部であるこの辺りは、「下総国」と名付けられ、今の県庁所在地である「国府」は市川市に置かれる。
そして、天皇の支配が衰えはじめた中世。
京都を都として整備した桓武天皇の子孫である平氏が関東に移り、その子孫である千葉氏が周辺を治めはじめる。
やがて江戸時代に今に通じるインフラが整備されますが、佐倉藩の一部となり、佐倉藩と江戸を結ぶ佐倉街道が整備されると、船橋宿から木更津へ向け、寒川湊(今の千葉港)から千葉佐倉道と東金道が分岐する小さい宿場町となる。
江戸時代末期には、曽我野浦や登戸浦(今の千葉市中央区)が内陸の東金や外房の九十九里から陸路で運ばれた荷物を一気に船で江戸へ運ぶ、佐倉藩の外港として発達。
さて、ここからが一昔前、近代以降の千葉の様子です。
明治時代に、印旛県と木更津県が合体し千葉県となり、両県の境であり千葉氏の本拠地であった現千葉市に県庁が置かれる。
やがて1894年に総武鉄道が作られ、県都としても交通の要所としても発達する。
さて、さっそくチーバ君の喉元である海沿いの変化を見ていきます。
海の町として海産物を売っているのは、東京の海沿いや浦安などとも同じ。
また、海水浴など行楽地としても栄えたのだろう。
さあ、チーバ君の喉元が埋め立てられますよ。
戦前まで、軍用施設や軍需品の生産のための日立製作所の工場もあったが、戦後、「戦災復興都市計画」により埋め立てと工場の誘致が進む。
川崎製鉄(現在のJFEスチール)の工場を蘇我に誘致し、現在は京葉工業地域の中心都市、川鉄と呼ばれる施設(体育館や病院、社宅など)が多く作られる川鉄(JFE)の企業城下町と発展。
チーバ君の喉元がフルメタル(鉄鋼)化に改造されていく様子をご覧ください!!
千葉市湾岸部のようす
さあ、千葉港の方に向かいましょう。
千葉市のランドマーク、憩いの場である千葉ポートタワーを目指します。
展望台に上ります。
蘇我駅前の埋め立て地に、川崎製鉄所ことJFEスチールの工場。
チーバ君のフルメタルな喉元ですね!
で、やっぱ工場は夜景が美しいと思うのです。ちょうど夕暮れで、30分くらいで日も落ちる時刻ですので待ってみました。
ただ、またも雨でして。
僕が千葉の奥地に行くとだいたい雨で、僕はこれを以前向かった久留里城こと雨城の呪いと呼んでいます。
いや、ただの台風ですね。
先日のお盆休み東北旅行、豪雨のため遠野への電車が不通で断念し帰還した翌日なのです。
東京に台風が向かっていた時に向かったから、そりゃこの程度の豪雨には遭遇しますね。
窓に水滴がついてない撮影スポットを探したのだけど、この一角しかないため、あまりいい撮影ができてない言い訳をしています。
イマイチ、キレイじゃなかったので、水滴と光で遊んでみます。
う~ん。やっぱり市街地のライトアップの方がキレイですね。
以上が、ポートタワーで展示している、ナイトクルーズ船で撮った工場の夜景です。こう、これを目指していたんや!
はあ、僕の撮った写真なんて、所詮はチンケだなぁ。
千葉の海沿いの変化を描く補足・浦安のリゾート化
さて、千葉県の東京湾側の海における工業化について触れたのですが、その海の変化のもう1つの側面として、浦安について触れていきます。
浦安と言えば、東京ディズニーランド。チーバ君の体で言えば、舌の部分「ベロ先」ですね。
そこが「多くの日本人があこがれる夢の王国」と化すまでの歴史です。
かつて干潟が広がり、江戸に生活の最重要物資である塩を供給する行徳塩田と、海苔と魚貝を供給する町であった浦安が観光都市化していく「海辺の変化」です。それを浦安郷土博物館に新設された展示物でご案内します。
決して、僕の中の「3度目の浦安郷土博物館の閉館日に出くわした不幸」へのリベンジ戦ではありませんよ!
浦安の昔
やっと出会えた、今年の4月1日リニューアルの新設展示へ。
ここ、東京湾こと江戸前の海の変化をたどるのにとてもわかりやすかった。
浦安の漁業の展示です。かつて境川周辺に並んでいた船。それが朝に通勤ラッシュのごとく出漁。そして、魚や海苔を干したり、加工したり、販売したりする浦安の町の昔の風景が想像できそうです。
海苔の養殖。浦安でも、品川でも、浅草で売っていたから「浅草海苔」なのかな。
浦安駅のまわりには、焼き蛤や浅利を売っている店や、佃煮を売っている店がまだ見かけられます。
戦後、浦安の海の埋め立て
その豊穣の海も、戦後の工業重視政策により埋め立てが進みます。
埋め立て用の土砂や淡水化用の水を運び出すパイプなどの展示も見られました。その下のパネル図は埋め立て前の浦安の海岸の写真と地形です。
地図中の市街地が今の浦安駅周辺、その南部の海側にある市役所が新浦安駅の前にあります。そのすぐ西(左手)側が境川、旧江戸川の大三角あたりがディズニーランド。
1969年には東西線の浦安駅が開通。
浦安の鉄鋼流通団地もでき、一気に市街地化が進みます。
2年後の1971年には地元住民が漁業権を放棄し、今では観光船の釣り程度の漁業に。
埋め立てとコンクリートによる護岸で、浦安の干潟や浅瀬は消滅しました。
館内には大きな水槽もあり、東京湾の魚や貝、うなぎなども見られました。
写真はボラですね。
浦安の漁業は壊滅しましたが、東京湾はまだ豊かな魚介類の宝庫であるようです。
ディスニーランドができる
さあ、今や日本人の憧れの地であり、関東のチビッ子とくに女子たちはだいたい行ったことあるディズニーランドができました。
華々しさの裏にある、浦安漁業と干潟など自然の壊滅。何事も、表と裏を見ていかねばなりません。
しかし、なかなか平和に暮らしている僕たちは、「物事の裏」を見ることができません。それを世に発信し問う仕事がジャーナリズムではないかとも思うのですが、僕のこのチンケな発信は何かの役に立つのでしょうか。
浦安の漁師町の変化
海の変化とちょっと違い、また「話が飛っ散らかって無駄に長い!」と怒られそうですが、海辺の町の変化を見ていきましょう。
浦安郷土博物館の外に展示されている、「浦安のまち」の展示です。
郷土博物館から、浦安駅(内陸方面)に向かう道に、境川周辺のかつて浦安の中心地だった「浦安のまち」の現在の様子が見られます。
新浦安に向かう道は、なんだかエコやハイソな感じがします。
以上です。最近は埼玉の研究から離れ、千葉を研究し始めている僕の、チーバ君シリーズの続編です。決してお盆休み、遠野に行けなかった分の仕返しの旅ではありません。
サクッと「工業地帯めぐり」にしたかったのだけど、どうしても無駄に長くなっていつもすいません。
で、次回はやはり工業地帯というと、京浜工業地帯。
というと、やはり浅野総一郎の京浜運河ですね。神奈川県の川崎です。
まあ、どこまで書けるかわかりませんが、ネタはけっこう撮影しています。
もう、遠野に行けなかった分のムカつきをたくさん発散させようとしました。
そのネタの発散の仕方がなぁ。たくさん溜まってるんや!
東北の旅も、あんな記事だけじゃなぁ。まあまた「被災地を行く」の続編なんだろうけど、釜石の郷土博物館、あれをどういう話にしようかな。
ああ、関東をもっと描いていきたいが、なかなかちゃんとしたものにならないなぁ。
いろいろ「国府と国分寺を描く」だったり、「崖線(国分寺崖線など)を行く」だったり、今日は咄嗟(とっさ)に「モノレールに乗ろう!」も考えてみた。
もっと埼玉も描きたいし、荒川の記事、たまりまくっているんだが、やっぱちゃんと描こうとして逃げてるな。
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いつも無駄に長くてすいません。