信と幸福感
信があるとき、
信を忘れないとき、
信を失わないとき、
現象はどうであろうと、
そのなかにある幸福の芽に目が向き、意識が向き、それが心の中心を占めるようになるのではないでしょうか。
アプリをタップするとアプリが拡大して起動するようなものでしょうか。
もちろん、現象のよくない面を全く見ないようにする、除外するということではないのですが、
そうした現象のよくない面、不都合な面、うまくいっていない面を理解しつつも、これらが気にならないようになるという心境でしょうか。
このところ、
信のちから
について、シリーズのように記事を書いていますが、
なんとなく書きたくなってい書いているのでして、
自分も、書きながら、信のちからを感じております。
特定の教祖、宗教、人物、教義を盲信するということではなく(さまざまなもしくは特定の教祖、宗教、人物、教義のうち、よい面を学び、盲信せずに信じることはよいと思いますし、自分もそれはしています。盲信との関係は信の重大なテーマなのでまた記事に書きたいと思います)、
日常の自分、他人、環境、出来事を信じる。
よきものと信じ、よき方向に向かうと信じ続ける。
たとえ、より現象が悪化しようと、耐えて、そうした信を抱き続ける。
すると、
幸福の芽を感じるセンサーを鍛錬することになるのでしょう。
日常の波風がいろいろとあろうと、信を維持し、幸福の芽を感じるセンサーが作動していれば、
現象も、幸福の芽が膨らむ方向に改善していくのでしょう。
自分も実践します(笑)
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