まりさんのこたえ:「勉強ができる」とはどういうこと?(リレ哲)
勉強と聞くと思い出すのは、私が初めてもらった通知表である。確か表紙には「通信簿」と書いてあったと思う。
私の頃は3学期制で、各学期の最終日に担任の先生からB6サイズを2つ折りにした通信簿を渡された。評価は5段階で数が多くなると評価が良くなるやつだ。
一年生の1学期、初めて貰った通信簿を開いたら、上から下までずらっとタテに「3」が並んでいた。このタテに並ぶ「3」が、耳(ミミ/33)がタテに並んでいるのように見えて、ニヤッと笑ってしまった。そのビジュアルの面白さと同時に「そうか、わたしは全部「真ん中」なのか!やった〜 普通なんだ」と思った。
私はその「普通」の通信簿を持って家に帰り親に見せたところ、親は明らかに何とも言えない微妙な顔をしたのである。幼いながらその反応に鼻白んでしまった。
ナンデ ホメテ クレナイノ カナ…⁇
これまでもこの「リレ哲」で何度か書いているが、その頃の私は、周囲の大人に「普通はそういうことを言わない」とか「まったく変わっている子だね」などと言われることが多かった。そんな私が、
5段階で「3」という、明らかにど真ん中の数字をもらったのである。
まさしく、いつも周り、大人から求められる「普通」を全科目で見事に射止めた!と思ったのだ。今思うと論点が全く違うのだが(お恥ずかしい…)、その時の私は、正直本当に嬉しかった。
マンナカ ノ フツウ トッタカラ
キット エラカッタネ ッテ イッテ クレルカナ?
しかし、そんな淡い期待は一瞬で玉砕したのであった。
約半世紀も前のことなのに、不思議と、このタテに並んだミミの通信簿と、それを見たビミョーな大人の顔は今でも鮮明に覚えている。
さて、前置きが長くなってしまったが、この頃の私にとって「勉強ができる」って羨ましいことであった。
なぜならミミの一件から、「普通」でなくても誉められるからである(ここでもまたズレているのがお恥ずかしい…)。
そして今の私にとっては、「勉強はできるに越したことはない」に変わった。
何らかの目標や資格を目指しているならば、その個人が勉強に励み「勉強ができる」→「評価や点数が高くなる」→「目標や合格点に達する」可能性が高くなるからである。
何かを目指して努力をすること、そこに到達することはすごいことだと思う。
しかし私の周囲には、たとえ「勉強はできなかった」としても、何らかの技能や技術、知恵やスキルに秀でていたり、自分の目標を達成したりしている人が沢山いる。
そういう人達を思い出すと、あくまで「勉強ができる、できない」というのは、人のパーツの一部なのだなと思うのである。
勉強はできるに越したことはないかもしれない。でも大切なのは、ひとりひとりが生きる上で様々な経験を積んで、時には人と繋がり「生きる力」を育てていくことかもしれないと今回のお題で考えた。
でもまぁ、そもそもミミだった私が、「勉強はできるに越したことはない」などと言うのは、もしかしたら負け惜しみなのかもしれないけれど…笑
(まり)
◆ステータス:プラクティショナー
「止まり木ファシリテーター」
◆プロフィール:
「働く」をキーワードに、産業・医療・福祉・教育の分野でカウンセラー(臨床心理士/公認心理師)として働いてきました。「働くことは生きることに繋がる」をモットーに、個人、集団、組織を支援させて頂いています。「半径2メートルの安心」をいかに提供できるか。これからも自分の在り方を模索してきたいと思っています。
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【ピョエ坊(ソジテツ広報)より】
ある問いに対する自分のことばをリレー形式で書いてもらうリレ哲。次回のバトン走者は、Nakataさん。どんな「自分自身のことば」を紡いでくださるか、楽しみです。
ソジテツは、ふつう・当たり前や、一般論、世間的な正しさではなく、ひとりひとりの中にある様々な「自分の考え・体験・価値観」を表現することを、大事にしています。こたえはきっと百人百様だと思いますが、それが素敵なことなんです。
これをご覧のみなさんも、良ければ「自分の考え・体験・価値観」で考えてみてくださいね。
【月別テーマ予定】
9月:教育、学校
10月:年齢、年代
11月:〇〇らしさ
12月:マイノリティ、生きづらさ
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