『メメントラブドール』を読みあぐねたあなたへ①
本記事では市街地ギャオ『メメントラブドール』について語りたい。そう思ったのは、読書メーターやブクログで、読了後に困惑したという反応が多く見られたからだ。作品のつかみどころのなさを嘆いて思索を止めてしまうのはもったいない。そういった方々のために、本小説の自分の解釈をまとめてみたい。思考の補助線となれば幸いだ。
あらすじ
「私」こと忠岡柊太は、昼はSIer企業でうだつの上がらない社員として働きながら、定時退社した後は、男の娘コンカフェ・ラビッツで「うたちょ」として勤務している。(だが男の娘らしい恰好をしているわけでもなく、キャストとしては中途半端である。)
また、「私」は「ノンケ慰め隊たいちょー」という裏アカウントでも活動しており、マッチングアプリでノンケを集めては(許可を得たうえで)性行為の動画を撮影し、SNSにアップしている。
作中で描かれるのは、そのような「私」の梅雨の時期の生活である。マッチングアプリで出会ったカズと動画を撮影したり、SIer企業の後輩である紺野をマッチングアプリで釣るだけ釣って(しかもプロフィール画像はカズにしている)ブロックしたりすることはあった。しかし事件らしい事件はほとんど起きない。裏アカウント「たいちょー」の存在がラビッツ(コンカフェ)に知れ渡ったのが、唯一事件と呼んでも差し支えない一件ではある。だが、ラビッツを辞めたわけでもない。(ただ、良客の1人であった「おじさん」が同時期に音信不通となってしまう。)
業務(オンライン会議)に身が入ってないことに対してSIer企業の上司から叱責されたのち、裏アカウントでの活動で出会ったカズとの会話を経て、物語は終幕する。
ラストシーンの解釈
本作の終盤。「私」は、カズがマッチングアプリで男と会っていたこと、さらにはマッチングした男と動画を撮影したことを、カズ自身から打ち明けられる。そのとき「私」は、カズに対してマッチングした相手のことを尋ねる。
「ノンケ?」
「いや、ゲイだって。ストレートって書いてたの嘘でしょ、って言われちゃって、あー、やっぱ男とマッチする設定にしたらゲイばっかりになるんだろうなって」
「そりゃそうでしょ、こんなことしちゃってんだし。てか童貞を捨てるためにバズりたいって言ってたけど、あれほんと? それだけのためにここまでやっちゃうって思えないんだけど」
「どういう意味ですか?」
「ゲイなんじゃないの、カズくんも」
※ノンケ、ストレートとは異性愛者のこと。
このとき「私」は、カズも(口では異性愛者と言いつつも)やっていることはゲイではないか、と問いただしてしまう。だが「私」はこの質問をしてしまったことを即座に後悔し、謝罪する。
頭のなかが急速に冷えていくけど、取り返しのつかない失言に対して私ができることはなにひとつとしてなかった。
「ごめん、いまのは無視して」
すぐさま後悔し謝罪したことから察するに、「私」は、相手が称しているセクシュアリティ(もっと広く言えば属性)を否定することを、悪徳として捉えている。
また、下記のような描写もあることから、「私」は第三者による「想像」を、「ある種の暴力」として、すごく注意していることがわかる。
トランスである奏乃の寄る辺なさを適当な気持ちで想像してしまうのはある種の暴力なんだろうけど、でも私にはそれしかできない。
※奏乃はラビッツ(コンカフェ)の従業員(キャスト)。
そんな気遣いが行き届いている人物であるにもかかわらず、なぜ「私」はあんなことを言ってしまったのだろうか? 単なるうっかり、と片付けることも可能なのだろうが、私は納得できない。
本記事ではその点について掘り下げていきたい。そして、「私」はペルソナを否定されたいという願望を持ちながら、一方でその願望が「現代的なモラル」により実現しえないという諦念を持っているのではないか、ということを説明していきたい。
ペルソナを否定されたい「私」
「ペルソナ」について、本来はユングを引き合いに出しながら、適当な心理学事典を引用しつつ明確な定義を述べていくのが筋だと思うが、面倒である。ここでは「ペルソナ」を、”周囲の人間に見せている自分”と定義しておきたい。
さて、本作では「私」の3つのペルソナが登場する。ひとつは裏アカでノンケ喰いにいそしむ「たいちょー」であり、もう一つは男の娘コンカフェで働く「うたちょ」であり、三つ目はSIer企業に勤務している「忠岡」である。
男の娘コンカフェのキャストとしては男の娘らしさを欠いており、SIer企業ではうだつが上がらない社員として働いていることは、あらすじでも述べた通り。
どれも中途半端な印象で、なぜ一つのペルソナに集中したり、ペルソナを徹底したりしないのだろうと疑問に思った読者も多いだろう。また、SNSに性行為の動画をアップするのはリスキーであり、実際にコンカフェの方には裏アカのことがバレている。そこから一歩踏み込んで、バレるためにやっていたのではないか、と勘繰る読者もいるだろう。
そして、この直感はあながち間違っていない(と思う)。というのは、「私」は親しい人間から叱られたい、あるいはペルソナを否定してほしいという感情を抱いているからだ。
その一例として次の場面を引用したい。自分が男の娘に向いているのかをカズに対して問いただし、自分のことを「いやそこはブスって言えや」と拗ねた後のシーン。(結局、カズからは「ブス」だと言ってもらえなかったわけだが、)やり取りの後、「私」はこのような心象を独白していた。
どうしたいって、傷つけられたいに決まっている。いや違う。カズの手によって男の娘を剝奪されたかったのかもしれない、〔…〕
ここで、「私」はカズに男の娘というペルソナを否定したもらおうとした、という点に注目しておきたい。このように、あるペルソナから動員した人に、別のペルソナを否定してもらおうとする事例は、別のシーンでも登場するからだ。
その例として、「うたちょ」と「おじさん」の関係について触れたい。コンカフェに裏アカがバレたのと同時に、うたちょにとっての良客である「おじさん」が音信不通になってしまう。そして「私」は「おじさん」について、下記の引用のように回想する。
おじさんらしい幕引きだけど、私は自分の醜さや浅はかさを責め立てられたくて、そしてそれは当然の感情や権利だとも思って、その傲慢なやるせなさの端っこにいなくなった存在を思い出してしまう。
表現は先ほどよりも間接的だが、ここでも先ほどと同じような心理状態になっている。この場合は、「おじさん」に「たいちょー」を否定してもらおうとしている。
しかし、そうした「私」の願望が成就することはなかった。カズは「ブス」と言ってはくれなかったし、「おじさん」は何も言わずに去ってしまった。
そして、それは当然のことである。「私」が相手の属性を否定しないことを現代的なモラルだと認識し遵守していたのと同様に、カズや「おじさん」もそのモラルを認識し遵守しただけなのだ。
ラストシーンふたたび
ここで最初に提示した疑問に立ち返ってみたい。なぜ(相手の属性を決めつけないというモラルを把握していたにもかかわらず)「私」はカズに対してゲイではないかと問いただしてしまったのか?、である。
これも、ペルソナを否定してもらいたかったという願望を実現するために出来心でやった悪あがきと考えれば、スマートだと思う。つまり、今度は「私」からカズに対して「ノンケ」というペルソナを疑ってみせることで、そのお返しに「私」のペルソナを否定してもらおうとしたのではないか。
さらに次のようなことも推論できる。相手の属性を否定してはならないという現代的なモラルを相手も遵守しなければならないので、「私」はペルソナを否定してもらえないことを悟ったのではないか。(作品全体に漂っている閉塞感や無力感やけだるさは、この諦観を体現しているように思える。)
もちろん、直前2か所の太線部は単なる推理でしかないし、そもそもカズに対する問いかけも「私」とカズの両者がうやむやにしてしまったので、確かめようがない。
さて、ラストシーンに関する思索は行き止まりとなってしまった。これ以上は推論の域を出ない。だが、カズや「おじさん」の例から、「私」がペルソナを否定されたがった/しかし否定してもらえなかったという点は確かだと考えてもよさそうだ。
なぜこんな話をしたのか?
いつかは「私」にも成長(成熟)が待っているのではないか、いつか「私」にも安住できるアイデンティティが見つかるのではないか。『メメントラブドール』の感想にはそうしたものが複数あった。それらの期待は読者の誠実な祈りであるし、本作のラストでもそうした希望を匂わせてはいる。しかし、安易にアイデンティティや成長への希望を見出すのは、既にある枠に「私」を当てはめているように思える。それらの期待を見直す必要があるように感じたので、ここまでは「私」がペルソナを否定されたがったが成就しなかったことを丁寧に説明してきた。
ここからは成長(成熟)の話を少し掘り下げてみたい。ここで「成長」と呼ばれるもののパターンを列挙してみよう。
① 恋愛・結婚・家族よる成長(ロマンティック・ラブ・イデオロギー)
② 立身出世(あるいはコミュニティからの承認)
③ 母なる存在を「喪失」することよる成長
④ 弁証法による成長(教養小説にみられる)
現代文学において「成長」の話がどう整理されているのかわからない。ゆえに、これ以外のパターンも挙げられるのかもしれない。が、ひとまずこの4パターンを検討してみると、「私」はどのパターンからも拒絶されていることがわかる。
①と②について。「私」がそうしたものを望んでいないのは自明だろう。ただ、(とても嫌なことに)「私」が勤めているSIer企業にも(世間一般の会社と同様に)やはり異性愛規範があり、そのことは上司の「私」に対する説教にも現れている。
「いまの時代、こういうことを言うのはおかしいかもしれないけどさ、忠岡くんもいつかは結婚して、子どもだってできるかもしれないじゃん。いつか家族のために働く日が来たとき、このままじゃ誰も守れないんじゃないの。これは昇格して給料上げろっていうだけの話じゃなくて、生き方の話ね。〔…〕」
もちろん、「私」に対して露骨に”家庭を築けば(あるいはその努力をすれば)安住の地を得るだろう”と声をかける読者はいない。しかし、”承認を得られる何か(≒アイデンティティ)を見つけよ、歓迎してくれるコミュニティに属せ”というアドバイスも、(上司の説教と同じように)「私」からすれば余計なお世話だろう[註1]。むしろ共同体への帰属・承認という助言を処方箋にしたがる自分たちの傾向を振り返った方がよいと思う[註2]。
③について。本作には「私」の家族が登場しない。母どころか父もきょうだいも出てこない(情報も語られない)、というのが興味深いところである。よって母親の喪失というのも描かれない[註3]。
④について。弁証法とは、対立する命題(テーゼとアンチテーゼ)を統合して、より高い次元のジンテーゼを導く思考法である。主人公と反対のなにか(アンチテーゼ)を持っている人物とぶつかり合って成長していく、というプロットは教養小説にはありふれている。しかし「私」にはアンチテーゼとなりうる人物が現れなかった。そのため弁証法による成長は成就しなかった。このことは以前の議論で示した通りである。
少なくとも、典型的な4パターンについては「成長」から阻まれているということを示せた、とは言わないまでも語ってみた。では「私」に成長はまったくなかったのか。じつはそんなことはないと考えている。ということを、第2回の方で語っていきたい。
註
[註1]もちろん、この推察自体も「私」に言わせれば「ある種の暴力」(p.44)である。なぜなら「適当な気持ちで想像してしま」(p.44)っているからだ。
[註2]この発想自体は筆者のオリジナルではない。『庭の話』など、宇野常寛の2010年代後半から20年代前半の著作を参照されたい。
[註3]本作の場合、「おじさん」を疑似的な母として見なすことも可能だろう、と思われた方もいらっしゃるかもしれない。そして「おじさん」も「私」の裏アカがコンカフェに知れ渡ったのと同時に音信不通となっている。このことを「喪失」として捉えることも可能かもしれない。江藤淳『成熟と喪失』や佐々木敦『成熟の喪失』といった評論を参照しながら検証するべきなのかもしれないが、筆者にその体力は残っていない。
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