老子道徳経を超個人的に訳してみた
こんにちは。哲学チャンネルです。
人生を変えた本、人生に影響を与えた本ってありますよね。
私は、自分の人生に影響を与えた本を、本棚の特定の箇所にまとめて並べるようにしています。
そんな中でも、『老子』は、とびきり私の人生に大きな影響を与えました。
ということで今回は『老子』の意訳をしてみようと思います。
ある程度正確な形の口語訳はさまざまなところでなされていますから、今更そのような試みをしても面白くない。
なので(批判覚悟で)かなり砕けた形で、むしろ読み下し文には含まれない内容なども含めて、私なりの解釈を意訳として提示してみようと思います。
あくまでもその前提で見ていただけると嬉しいです。
それでは本編にまいりましょう。
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*書き下し文は井上秀天『老子の新研究 : 漢英考証』を参照しています。
(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です。)
*また、和訳に関しては『老子(蜂屋 邦夫訳)岩波文庫』『老子 全訳注 (池田 知久訳)講談社学術文庫』『老子(小川環樹訳)中公文庫』などを参照しました。
第一章
道の道ふべきは常道にはあらず。名の名づくべきは常名にはあらず。無は天地の始めと名づくべく、有は萬物の母と名づくべきなり。故に、常無にして以てその妙を觀んと欲し、常有にして以てその徼を觀んと欲せよ。この兩者は同じきも、出でては名を異にするなり。同なるこれを玄と謂ふも、玄のまた玄にして、衆妙の門なり。
「これが倫理的に正しい生き方です」と表現できるようなものは正しい生き方などではない。
「これが真理です」と示せるようなものは真理などではない。
言葉は人間の歴史と共に作られたものであり、元々の世界にはなかったものである。
だから、目先の言葉を重視しない立場に立てば、言葉を超えた奥深い「何か」に気づくことができるし、目先の言葉に翻弄されれば、見えるのは感覚的な現象だけである。
以上の二つもの、すなわち「言葉を超えた何か」と「感覚的な現象」は世界という同じ根元から現れるものであるが、お互いに違った表現によって表される。
同じ根元から現れるものであるが故に「感覚的な現象」も「奥深いもの」として捉えられるが(そうすると両者が同じレイヤーに属すことになってしまうので)「感覚的な現象」よりもさらに奥深いものとして「言葉を超えた何か」は規定される。
その奥深いものよりも奥深い「言葉を超えた何か」こそが「道」であり、そこからあらゆるものが生まれるのである。
第二章
天下はみな美の美たることを知るも、これ惡なるのみ。みな善の善たることを知るも、これ不善なるのみ。故に、有無は相生じ、難易は相成り、長短は相形はれ、高下は相傾き、音聲は相和し、前後は相隨ふなり。是を以て、聖人は無爲の事に處り、不言の敎を行ふ。萬物は作るも辭せず。生ずるも有せず。爲すも恃まず。功成るも居らず。それ惟居らず。是を以て去らざるなり。
世の人々は「美しいものは美しい」と思っているが、実はそれらは醜いものである。また「善いものは善い」とも思っているが、実はそれも善くないものに他ならない。(物事は相対的なものだから「善い」と思えるものは同様に「善くない」とも思える。)
それそのもので「美しい」「善い」ものなど存在しない。
有ると無いは相手によって生まれるし、難しいと易しいは相手がいるから成り立つし、長いと短いは相手があるから形になるし、高いと低いは相手がいるからあらわれるし、音階と旋律は相手があるから調和するし、前と後ろは相手がいるから並び立つ。
このことから聖人は相対的な事柄に惑わされることなく、(ただ生を自然に任せるという)無為自然の立場に立つ。
だから誰に指図することもない。
自然の自生を大事にして手を加えず、作物を育てても所有することなく、善いことをしても見返りを求めず、大きな成功を手にしてもその功績に安住することはない。
むしろそのような功績ほど消えることがない。
第三章
賢を尙ばざれば、民をして爭はざらしめ、得がたきの貨を貴ばざれば、民をして盗たらざらしめ、欲すべきを見さざれば、心をして亂れざらしむるなり。是を以て、聖人の治むるや、その心を虛にし、その腹を實にし、その志を弱にし、その骨を强にし、常に民をして知なく、欲なからしめ、かの知者をして敢てなさざらしむるなり。無爲をなさば治まらざるなし。
人の上に立つものが才能あるものを尊重しなければ、人々は争わなくなる。
人の上に立つものが珍しい財宝を尊重しなければ、人々は盗みをしなくなる。
人の上に立つものが多くの欲望を持たなければ、人々は乱れなくなる。
聖人の政治とは、腹をいっぱいにさせ、心を単純にさせ、体を丈夫にさせ、志を弱めさせ、常に人民を無知無欲の状態に置いて、賢い者に行動させないようにすることである。
そのように「無為」によって政治を執り行えば、人民が治らないということはないのである。
第四章
道は冲にしてこれを用ふるも、或は盈ず。淵乎として万物の宗に似たり。その鋭を挫き、その紛を解き、その光を和げ、その塵に同うし、湛乎として或は存するに似たり。吾は誰の子たるかを知らず。帝の先に象たり。
「道」というものは、空っぽの存在であるようにも見えるし、満ち足りた存在であるようにも思える。
底のない崖のようにも見えるし、万物の大元のようにも思える。
「道」は知恵の鋭さを弱め、知恵によって起こる煩わしさを抑え、知恵の欲望を和らげ、世の中の人々に同化する。
それは水のように静かである。
私にはそこに何かが存在しているように見える。が、それが何かははっきりとはわからない。どうやらそれは「神」とされる中国の皇帝よりもはるか前の祖先のようでもある。
第五章
天地は不仁ならんや、萬物を以て芻狗となすほどに。聖人は不仁ならんや、百姓を以て芻狗となすほどに。天地の間は、それ猶ほ槖籥のごときか。虚にして屈せず。動けばいよいよ出づ。多言なればしばしば窮すれば、中を守るにはしかず。
天と地(物理法則)には仁愛(思いやりや感情)などはない。
ただ、万物をわらの犬(とるに足らないもの)として扱う。
聖人には仁愛(思いやりや感情)などはない。
ただ、万物をわらの犬(とるに足らないもの)として扱う。
天と地(物理法則)は「ふいご」のようなものである。
中身が空っぽであるにも関わらず、それが動くことで万物が生まれてくる。
(このような天と地に対して)言葉によって説明を試みると、しばしば行き詰まる。何も考えないのが一番良い。
第六章
谷神は死せず。これを玄牝と謂ふ。玄牝の門、これを天地の根と謂ふ。綿綿として存するがごとくして、これを用ふるも勤れず。
万物を生み出す谷間の神は、とめどなく万物を生み出してとどまることを知らない。これを私は「神秘なる母性」と呼ぶ。「神秘なる母性」は万物を生み出す門である。「神秘なる母性」の存在はぼんやりしていてはっきりしないが、その力はいくら働いても尽きてしまうことがない。
第七章
天は長く地は久し。天地のよく長く且つ久しき所以のものは、その自ら生ぜざるを以てなり。故によく長生す。是を以て、聖人はその身を後にするも而も身は先だち、その身を外にするも而も身の存するは、その無私なるを以てにあらずや。故に、よくその私をなすなり。
天も地も永遠なるものである。
天と地が永遠なるものであるのは、それらが自らの命を伸ばそうとしないからである。
だから永遠であり続けるのだ。
だから聖人は、我が身を後回しにすることで、かえって先となり、我が身を度外視することで、かえってその身を保全する。
聖人には我が身をどうにかしようとする意識がない。
だからこそ、聖人は自己を実現できるのである。
第八章
上善は水のごとし。水はよく万物を利して爭はず、衆人の悪む所に處る。故に道に幾し。居は善地、心は善淵、與すれば善仁、言へば善信、政は善治、事は善能、動けば善時なり。それたゞ爭はず、故に尤なし。
最上の善とは水のようなものである。
水は、万物に恵みを与えながら、争うことがなく、皆が嫌だと思うような低いところに落ち着く。だから水は「道」に近いのだ。
身の置き所は低いところが良い。心の持ちようは静かな方が良い。人との付き合いでは思いやりを持つのが良い。言葉は誠であるのが良い。政治はよく治るのが良い。物事は成り行きに任せるのが良い。行動はその時に適切なものであるべきだ。
これらは全て「水」が教えてくれる。
水は争わないから、咎められることもない。
第九章
持してこれを盈たさんよりは、その已むにしかず。揣つてこれを銳くすれば、長く保つべからず。金玉堂に滿つるも、これを能く守ることなし。富貴にして驕れば、自からその咎を遺さん。功成り名遂げて身退くは、天の道なる載。
満ち足りた状態を保持しようとするのはやめておくべきだ。
刃物を研いで鋭くすることは、むしろ長く切れ味を保てない原因になる。
部屋いっぱいに金銀財宝があっても、それを守り続けることはできないし、無駄な負担を抱えるだけだ。
欲望にまみれていると、自ら災難を招くこととなる。
仕事を成し遂げたらすぐに退く。これが「道」に従うということなのだ。
第十章
營魄一を抱きて、よく離るゝことなからんか。気を専らにし柔を致して、よく嬰児の如くならんか。滌除玄覽して、よく疵なからんか。民を愛し国を治むるには、よく無爲なからんか。天門開闔して、よく雌たらんか。明白四達して、よく無知ならんか。これを生じこれを畜ふ。生ずるも有せず、爲すも恃まず。長ずるも宰せず。これを玄德と謂ふ。
心と身体を両方ともしっかりと意識して、分離させることなく一体化できるか。心が乱れないように集中し、それでいて柔軟な、赤ん坊のような状態でいることができるか。
どこまでも奥深い心を清らかに持ち、それを傷つけないままでいられるか。
人民を愛し国を治めるために、知恵に頼らないでいられるか。
目や耳からあらゆる感覚を受け取っても、女性のように静かで安らかなままでいられるか。
万物についてのあらゆることが分かったとしても、それに対して知恵を働かさないままでいることができるか。
万物が生じてもこれを所有せず、恩を施しても見返りは求めず、成長させても支配をすることはない。
これが本当に奥深い徳というものである。
第十一章
三十輻は一轂をともにす。その無なるに當つて、車の用あり。埴を埏して以て器をなす。その無なるに當つて、器の用あり。戸牖を鑿つて以て室となす。その無なるに當つて、室の用あり。故に、有の以て利たるは、無の以て用をなす(が故)なり。
30本の輻(車輪の中心部から輪に向かって放射状に出ている棒)が一つの甑(車の輪の中心の太いまるい部分。別名「ハブ」)と共に車輪を形作る。
両者の間にある空虚な部分にこそ、車輪としての働きがある。
埴(ねんど)を捏ねて器を作る。その空虚な部分にこそ、器としての働きがある。
扉や窓を用意して部屋を作る。部屋という空虚な部分にこそ、部屋としての働きがある。
このように、形あるものが便利に使われるのは、空虚な部分が(便利さを生み出す)働きをするからなのだ。
第十二章
五色は人の目をして盲ならしめ、五音は人の耳をして聾ならしめ、五味は人の口をして爽ならしめ、馳騁田獵は、人の心をして發狂せしめ、得がたきの貨は、人の行をしてを妨はしむ。是を以て、聖人は腹をなして目をなさず。故に、彼を去りて此を取るなり。
綺麗なものは人の目を見えなくさせ、美しい音楽は人の耳を聞こえなくさせ、美味しい食べ物は人の味覚を麻痺させ、馬を走らせて狩猟することは(趣味にあまりにも没頭することは)人の心を狂わせ、珍しい財宝は人の行いを悪いものにする。
だから、聖人の政治というのものは、人々の腹を満たすことを最優先に考え、目を楽しませるようなこと(当然、他の感覚器官を楽しませることも含めて)を大事にしない。
欲望に依拠する雑多なものを捨てて、現実的な生を選ぶのである。
第十三章
寵は辱なり驚くが如し。貴は大患なり身のごとし。何をか竈は辱なり驚くがごとしと謂ふ。寵を上たり、辱を下たるも、これを得るに驚くがごとく、これを失ふにも驚くがごとし。これを寵は辱なり、驚くがごとしと謂ふ。何をか貴は大患なり身のごとしと謂ふ。吾に大患ある所以は、吾が身を有するがためなり。吾に身なきに及んで、吾に何の患かあらん。故に、貴ぶには身を以てして、天下を爲むる者には、則ち以て天下を寄すべし。愛するには身を以てして、天下を爲むる者には、則ち以て天下を託すべし。
多くの人は寵栄(君主から評価されること)が得られるのか、恥辱を受けるのかについて、常に不安に思っている。
その原因は名誉とか財産などの外的なものを大切にし、それらをあたかも我が身のことのように思っているからである。
なぜ名誉とか財産などの外的なものを大切に思うのか。それは名誉や財産を良いものだと思い、名誉や財産がなくなることを悪いものだと思っているからである。
なぜ名誉とか財産を良いものと思うのか。それは名誉や財産を我が身と同じ類のものとして捉えるからである。
仮に身体がないとしたら、名誉や財産に何の意味があるだろうか。
名誉や財産は身体と同等の価値を持たない。
だから、名誉や財産を背景に天下を治めることを目的にした君主よりも、身体を案じ大事にする君主の方が国を治めることができるし、政治を預ける信頼に足るのである。
第十四章
これを視れども見えず、名づけて夷と曰ふ。これを聽けども聞えず、名づけて希と曰ふ。これを搏へんとするも得ず、名づけて微と曰ふ。その三つの者は、以て致詰すべからず。故に混じて一となす。その上は皦かならず。その下は昧からず。縄縄兮として名づくべからずして、無物に復歸す。これを無狀の狀、無物の象と謂ふ。これを惚恍と謂ふ。これを迎ふるもその首を見ず。これに隨ふもその後を見ず。古の道をとりて、以て今の有を御し、よく古始を知る。これを道紀と謂ふ。
目を凝らしても見えないもの、これを「夷」と名づける。
耳を澄ましても聞こえないもの、これを「希」と名づける。
撫でさすっても捉えられないもの、これを「微」と名づける。
これらは混じり合って「一」を構成しており、捉えることもできないし、これ以上に説明することもできない。
この「一」はその上の方が明るいわけでもなく、下の方が暗いわけでもない。明らかに活動をしているのに、これを説明することもうまく名づけることもできない。この「一」は万物に名前が付く遥か前の根源的なものである。
「一」は「姿のない姿」「形のない形」であり、これを「惚恍」と名づける。
とはいえ、このように名前をつけてみても「一」を捉えられるわけではない。(むしろ名をつけることで「一」からは離れてしまう)
古い昔の道の立場を守り、目の前のことを粛々とこなす。
そうすることでいずれ古の始まりを知ることができる。
これが道の法則である。
第十五章
古の善く士たる者は、微妙玄通、深くして識るべからず。それただ識るべからず。故に强ひてこれが容をなさば、豫兮として冬に川を渉るがごとく、猶兮として四隣を畏るゝがごとく、儼兮としてそれ客たるが如く、渙兮として冰のまさに釈けんとするがごとく、敦兮としてそれ樸のごとく、曠兮としてそれ谷の若く、混兮としてそれ濁るがごとし。孰かよく濁りて、以て静かにして徐に清からん。孰かよく安んじて、以て動きて徐に生ぜん。この道を保つ者は、盈つることを欲せず。それただ盈たず。故によく敝れて新たに成さず。
優れた人間というのは、掴みどころがなく、奥深くて何事にも通じていて、人間としての深さは計り知れない。掴みどころがなく、その深さが計り知れないのだから、優れた人間を説明することは不可能である。
だが、無理して説明を試みようと思う。
(優れた人間は)冬に川を渡るように注意深い。
(優れた人間は)四方から敵に囲まれているように慎重である。
(優れた人間は)招かれた客のように厳かである。
(優れた人間は)氷の溶けるように和やかである。
(優れた人間は)切り出したままの木のように素朴である。
(優れた人間は)谷のように広々としている。
(優れた人間は)濁った水のように何でも併せ呑む。
この道を体得したものは決して満ち足りようとしない。
満ち足りようとしないから、仮に壊れてもまたすぐに出来上がる。
第十六章
虛を致すこと極まり、靜を守ること篤ければ、萬物ならび作るも、吾は以て復を觀る。それ物は芸芸たるも、おのおのその根に歸す。根に歸するを靜と曰ひ、是を命に復すと謂ひ、命に復するを常と曰ひ、常を知るを明と曰ふ。常を知らざれば、妄作して凶なり。常を知れば容。容なれば乃ち公。公なれば乃ち王。王なれば乃ち天。天なれば乃ち道。道なれば乃ち久しくして、身を没するも殆からざるなり。
心を空っぽにして静かな気持ちを守る。すると、万物が生成変化する過程でそれらが道に還っていく様を見て取ることができる。
万物は盛んに生成変化をしながら、それぞれの根元である道に還っていくのだ。
万物の根元に還ることを「静」といい、万物を活動させている根本の道に還ることを「命」という。「命」に還ることを「摂理」といい、「摂理」を知ることを「明知」という。
「摂理」を知らなければ、みだりに行動して大きな失敗をする。
「摂理」を知れば一切を知ったことになる。一切を知れば、公平である。公平であれば王たるものである。王たるものであれば天(神)と同じである。天と同じであれば道と同一である。道と同一であれば永遠である。
そうすれば、一生危ういことはない。
第十七章
太上には、下これあることを知らず。その次には、これに親しみこれを譽む。その次には、これを畏れ、その次には、これを侮る。故に、信足らざれば、信ぜざることあるなり。猶兮としてそれ言を貴びたり。功成り事遂げて、百姓皆我が自然なりと謂ふ。
人民が「その存在を知っているだけ」の支配者が最高の支配者である。
次に良い支配者は、人民に褒め称えられる。その次の支配者は人民に畏れられる。その次の支配者は人民に馬鹿にされる。
支配者に誠実さが足りないと、人民はその支配者を信頼しないものだ。
支配者は言葉を惜しむべきである。支配者が言葉を惜しみつつ仕事を成し遂げれば、人民は「ひとりでにこうなった」と思い、それが支配者による功績だとは感じないだろう。(そしてそれが理想である)
第十八章
大道󠄃廢れて、仁義あり。智慧󠄄出で、大僞あり。六親和せずして、孝慈あり。國家昏亂して、忠臣あるなり。
(もともと存在していた)大いなる道が廃れてから、仁義が説かれるようになった。
(もともと存在していた)無為がなくなり知恵が働き出してから、虚偽が行われるようになった。
(もともと存在していた)家族の調和がなくなってから、孝行などの概念が現れた。
(もともと存在していた)国家の平静がなくなってから、忠臣が現れるようになった。
*つまり(老子が生きた時代に)議論されていた「こうした方が良い」は、すでに良い状態でなくなった場所においてのテクニックである。本質的にはその前の状態に戻す方が正しいのである。
第十九章
聖を絕ち智を棄つれば、民の利は百倍せん。仁を絕ち義を棄つれば、民は孝慈に復せん。巧を絕ち利を棄つれば、盜賊はあることなからん。この三の者は以爲に文のみにして未だ足らざるなり。故に屬する所あらしめよ。素を見はし樸を抱き、私を少なくし欲を寡なからしめよ。
支配者が知恵を捨てれば、人民の福利は100倍になる。
支配者がうわべの礼儀を捨てれば、人民は慈愛に満ちた状態に戻る。
支配者が効率を捨てれば、盗賊などはいなくなる。
以上のことをもう少し端的に述べよう。
染めていない生地のように切り出したままの木のように、支配者は私心を減らし欲望を少なくすべきである。
第二十章
學を絶たば憂なからん。唯と阿との、相去ることはいくばくぞ。善と悪と、相去ることはいかん。人の畏るる所は、畏れざるべからざるも、荒兮としてそれ未だ央らざるかな。衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春臺に登るが如きも、我は獨り泊兮としてそれ未だ兆さず、嬰児の未だ孩せざるが如く、乘乘兮として帰する所なきがごとし。衆人はみな餘ありて、しかも我は獨り遺れたるがごときも、我は愚人の心ならんや。沌沌兮たるのみ。俗人はみな昭昭たるも、我は獨り昏きがごとし。俗人はみな察察たるも、我は獨り悶悶たり。澹兮として海のごとく、飂兮として止まる所なきがごとし。衆人はみな以することあるも、しかも我は獨り頑かつ鄙なり。我は人に異ならんことを欲して、而して食母を貴ぶなり。
学ぶことを辞めれば憂いがなくなる。
「はい」と答えようと「おう」と答えようと、それにどれだけの違いがあるだろうか。
美しいと醜いにどれだけの違いがあるだろうか。
とはいえ、それらの違いが世間に認識されている以上、それに従うしかないときもある。
「道」はひろびろとして、どこまで行っても果てがない。
世の誰もが宴会のご馳走を楽しむかのように、綺麗な景色を眺めるように、楽しそうにしている。
ただ私だけがひっそりと暮らして笑もしない、くたびれて帰る家のない者のようである。
世の誰もがゆとりを持っている。
ただ私だけが貧しく何も知らない。
世の誰もが輝いている。
ただ私だけが薄ぼんやりとしている。
世間の人たちは目端が利いて聡明である。
ただ私だけがぼーっとしている。
私の心は海のように静かでもあり、強い風が吹くように止まることがないようでもある。
誰もがみな有能である。私だけが鈍くて田舎くさい。
ただ、私だけが人々と違い「道」という母なるものを大事にしたいと思っている。
第二十一章
孔德の容は、ただ道にこれ從ふなり。道の物たる、これ恍たりこれ惚たり。恍兮たり惚兮たるも、その中に象有り。恍兮たり惚兮たるも、その中に物有り。窈兮たり冥兮たるも、その中に精有り。その精甚だ眞にして、その中に信有り。古より今に及びて、その名は去らず。以て衆甫を閲ぶ。吾れなにを以て衆甫の然るを知れるや。これを以てなり。
徳を持つ人は「道」に従って生きている。
「道」は捉えどころがなく奥深い。
捉えどころがなく奥深いのだが、その中には何らかの形象、実体、純粋な何かがある。
「道」の中には確かに動きがある。
どれだけ過去に遡ろうと、いつの時代にも「道」は存在していた。
「道」の活動の中にはあらゆるものの始まりが見てとれる。
私になぜ「道によってあらゆるものが始まる」ということがわかるかというと、それはまさにこのこと「道がずっと存在し続け、活動し続けている」というまさにその事実によってなのだ。
第二十二章
曲なれば則ち全く、枉なれば則ち直く、窪なれば則ち盈ち、敝ければ則ち新しく、少ければ則ち得、多ければ則ち惑はん。是を以て、聖人は一を抱きて、天下の式となる。自ら見さず、故に明かなり。自ら是とせず、故に彰る。自ら伐らず、故に功あり。自ら矜らず。故に長し。それただ爭はず。故に天下能くこれと爭ふことなし。古の謂はゆる、曲なれば則ち全しとは、豈虚言ならんや。誠に全くして而してこれに歸するなり。
曲がっているからこそ全うできる。(荘子『人間世編』より、曲がった樹木は木材に利用されないためにむしろ長寿を全うできるという格言から)
屈まっているからこそ真っ直ぐになれる。(『易経』より、尺取虫=芋虫みたいな昆虫は伸びるために身を屈めているという格言から)
凹んでいるからこそ満ちることができるし、破れているからこそ新しくすることができるし、持ち物が少ないからこそ得ることができ、持ち物が多ければ迷うことになる。
聖人は「道」を体得し、世の中の人々の模範となる。
それでいて自らを聖人だとしないから物事がよく見える。
自らを正しいとしないから、むしろ善悪が明らかになる。
自らの功績を誇らないから、むしろ功績が保たれる。
自らの才能を誇らないから、むしろ長続きする。
そもそも聖人は誰とも争わないので、世の中の人々は彼と争うことができない。
(荘子が言った)「曲がっているからこそ全うできる」が出鱈目なはずがない。このような考えは人生を全うするために必要なものなのだ。
第二十三章
希言は自然なり。故に、飄風は朝を終へず。驟雨は日を終へず。孰かこれをなすものぞ。天地なり。天地すら尙ほ久しきこと能はず。而るを況や人に於てをや。故に、道に従事する者は、道に同じうし、德者とは德に同じうし、失者とは失に同じうす。道に同じうする者は、道もまたこれを得るを樂み、德に同じうする者は、德もまたこれを得るを樂み、失に同じうする者は、失もまたこれを得るを樂むなり。信足ざれば、信ぜざることあり。
「道」についていくら目ざとく耳を澄ましても何も聞こえない。
つむじ風も一日中ずっと吹くわけではなく、雨も毎日降り続けるわけではない。誰が風を吹かせ、雨を降らせるのか。それは天地である。
天地ですら同じことをずっと長く続けられないとすれば、人間においてはなおさらだ。
何かの行動をする際に、「道」から外れない者は「道」と一体となり、徳から外れない者は徳と一体となり、「道」を失った状態から外れない者は「道」を失った状態と一体になる。
「道」と一体になった者は「道」もまたその人と一体になるし、徳と一体になった者は「道」もまたその人を徳と一体の者とするし、「道」を失った状態と一体になった者は「道」もまたその人を「道」を失った状態と一体の者とする。
同様に、支配者に誠実さが足りなければ(「道」が主体の属性を認め同化するように)人民から信用されないものである。
第二十四章
跂つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自から見はす者は明かならず。自から是とする者は彰はれず。自から伐る者は功なし。自から矜る者は長からず。その道にありてや、餘食贅行と曰ひ、物或はこれを悪む。故に有道者は處ざるなり。
つま先で立つ者はずっと立ってはいられない。
大股で歩く者は遠くまでは行けない。
自分を物知りだと言う者は物事がよく見えていないし、自らが正義だと主張する者は善悪の判断ができていないし、自分の功績を誇るものはその功績自体がなくなるし、自らの才能を誇る者は長続きしない。
これらを「道」の観点からいうと『余分なもの』とされる。
人々は『余分なもの』が嫌いなはずである。(にもかかわらず人々は余分なものを追い求める)
だから「道」を体得した者は『余分なもの』を求めないのである。
第二十五章
物ありて混成し、天地に先だつて生ぜり。寂兮たり寞兮たり。獨立して改めず、周行して殆からず。以て天下の母たるべし。吾はその名を知らざるも、これに字して道と曰ひ、强ひてこれが名を為して大と曰ひ、大を逝と曰ひ、逝を遠と曰ひ、遠を反と曰ふ。故に、道は大、天も大、地も大、王も又大なり。域中に四大ありて、王はその一に居る。人は地に法とり、地は天に法とり、天は道に法とり、道は自然に法とるなり。
天地よりも先に混沌があった。
それは形がないのにもかかわらず確かに存在していて、他のなにものにも依存しない。それでいて常に運動をしていて、まさに世界の母と言うべきものである。
わたしは「そのもの」の名を知らない。
「そのもの」に仮の字をつけて「道」と呼び、さらに無理をしてそれを「無限」と表現しよう。
「そのもの」は無限であるからこそどこまでも動いていき、どこまでも遠くに動いていくとそのうちまた元に返ってくる。
「道」は無限なるもの。天は無限なるもの。地は無限なるもの。王もまた無限なるものであるべきだ。
この世には無限なるものが四つあり、そのうち一つを王が占めている。
王(人)は地の在り方を手本とし、地は天の在り方を手本とし、天は「道」の在り方を手本とし、「道」は「道」として然るべき在り方を手本とする。
第二十六章
重は輕の根たり、靜は躁の君たり。是を以て、聖人は終日行けども、而も輜重を離れず。榮觀ありと雖も、燕処して超然たり。如何ぞ萬乘の主にして、而も身を以て天下に輕くせるぞ。輕ければ則ち臣を失ひ、躁しければ則ち君を失はん。
重いものは軽いものの基本となり、静かなものは騒がしいものの基本となる。
だから君主は基本となる姿勢を持つべきである。
大国の君主でありながら、どうして人民よりも我が身を軽く扱えようか。
軽はずみな行動をすれば君主としての立場を失うし、みだりに行動すれば君主としての権威を失ってしまう。
第二十七章
善行には轍迹なし。善言には瑕謫なし。善計には籌索を用ひず。善閉には関楗なくして、而も開くべからず。善結には縄約なくして、而も解くべからず。是を以て、聖人は常に善く人を救ふ。故に棄人なし。常に善く物を救ふ。故に棄物なし。是を襲明と謂ふ。故に、善人は不善人の師にして、不善人は善人の資なり。その師を貴ばず、その資を愛せざれば、知たりと雖も大に迷へる。これを要妙と謂ふ。
優れた移動の仕方をする者は足跡を残さず、優れた言い方をする者は言葉に傷を残さず、優れた数え方をする者はそろばんを用いない。
優れた閉じ方をする者はかんぬきを使わないのに誰にも開けられず、優れた結び方をする者は縄を使わないのに誰にも解けない。
そのように聖人は、いつでも人々がうまく活動するように(優れた)対応をするから、人々は見捨てられることがない。
いつでも物事がうまく活かされるように(優れた)対応をするから、物事が見捨てられることはない。
このことを明知(道)に従うと言う。
善人は不善人の教師である。また不善人は善人の教師でもある。
その教師を尊敬しなければ、どんな才覚の持ち主でも愚か者である。
これを玄妙な道理と言う。
第二十八章
その雄を知りて、その雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば、常德は離れずして、嬰兒に復歸す。その白を知り、その黑を守れば、天下の式と為る。天下の式となれば、常の德は忒はずして、無極に復歸す。その榮を知り、その辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば、常德は乃ち足つて、樸に復歸す。樸散ずれば則ち器となる。聖人これを用ひて、則ち官長となる。故に、大制にして割かざるなり。
強さを知りながら(それを用いず)弱い立場を守っていくと、世の中の人々が慕う谿(水が流れている谷)になることができる。世の中の谿となれば、そこから徳は離れず、赤子のように純粋な状態に立ちかえることができる。
懸命な生き方を知りながら(それを用いず)愚かな生き方をしていると、世の中の人々が仰ぎ見るような規範となる。世の中の規範となれば、その主体はすでに徳と同一であり「道」の世界に立ちかえる。
栄誉ある在り方を知りながら(それを用いず)恥のある立場を守っていくと、世の中の人々が慕う谷になることができる。世の中の谷となれば、徳はその身に満ち足りて、自然のままの状態に立ちかえる。
自然に育った樹木が切られると役割を持った材料となる。
同じように自然に育った人間は君主に切られ人材として登用され、役割分担の一つになる。
自然に育った樹木のままでいられれば、役割分担の一部を担う必要はない。
第二十九章
天下を取つて、これを爲めんと將欲するも、吾はその得ざるを見るのみ。天下は神器なれば、爲むべからざるなり。爲めんとする者はこれを敗り、執らんとする者はこれを失はん。凡そ物は、或は行き、或は隨ひ、或は噓き、或いは吹き、或は强くし、或は羸くし、或は載り、或いは墮る。是を以て聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去るなり。
天下を治めようとして余計なことをするならば、天下を治めることはできない。天下というものは神聖な器であり、余計なことをしてなんとかなる者ではない。余計なことをすると壊してしまうし、捉えようとすると失ってしまう。
世の中の人々には、自ら先導するものもいれば人の後についていく人もいる。温厚な人もいれば激しく性急な人もいる。強い者もいれば弱い者もいる。自愛する者もいれば自棄になる者もいる。
君主は余計なことを辞め、贅沢を捨て、驕ったことを行わないのが良いのである。
第三十章
道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下に强くせず。その事は還るを好むなり。師の處りし所には、荊棘生じ、大軍の後には、必ず凶年あり。故に、善者は果して已む。敢て强を取らず。果して矜ることなかれ。果して伐ることなかれ。果して驕ることなかれ。果して已むを得ざれ。果して强なることなかれ。物は壯なれば則ち老ゆ。これを不道と謂ふ。不道なれば早く已むなり。
「道」にもとづいて君主を補佐する者は、武力によって強さを示すようなことはしない。武力で強さを示せば、すぐに報復される。軍隊のいるところには常に荊棘が生えるし、大きな戦争の後では必ず凶作になる。
うまく武力を用いる者はただ事を成し遂げるだけである。決して強さを示したりしない。事を成し遂げても才能や成果を誇ってはならず、高慢になってもいけない。成し遂げてもそれは(「道」の道理のために)やむをえなかったこととする。
物事は盛んになれば必ず衰えに向かうのであり、この様子を「道」に適っていないと表現する。「道」に適っていなければ早く滅びるのだ。
第三十一章
夫れ佳兵は不祥の器にして、物或はこれを悪む。故に、有道者は處らざるなり。是を以て、君子は、居るには則ち左を貴び、兵を用ふるには則ち右を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。やむを得ずしてこれを用ふるも、恬淡を上となし、勝つとも而も美とせざるなり。これを美とする者は、これ殺人を楽むなり。殺人を楽む者は、則ち志を天下に得べからず。(故に、吉事には左を尙び、凶事には右を尙ぶ。是を以て、偏将軍は左に處り、上将軍は右に處る。喪禮を以てこれに處るを言ふなり。)人を殺すことの衆多なれば、則ち悲哀を以てこれを泣き、戰に勝てば、則ち喪禮を以てこれに處るなり。
武器というものは不吉な道具であり、人々はそれを嫌う。
だから「道」を身につけたものは武器を使用しない。
君主は平時には朝廷に立ち、戦時には将軍となる。
武器は不吉な道具だから、やむをえず使う場合はあっさりと使うべきである。勝利を賛美するならば、それは殺人を楽しむことである。人殺しを楽しむ人間が、天下を全うできるはずがない。だから、勝ってもそれを賛美してはいけない。
(慣習的に)吉事には左側を上位とし、凶事には右側を上位とする。
戦の際は将軍を右側に配置するのだから、これは凶事のしきたりに由来する。戦では大勢の人を殺すので、悲哀の気持ちで挑み、戦に勝っても喪に服す必要があることを表している。
第三十二章
道は常にして名なく、朴なりにして小なりと雖も、天下に敢て臣とせず。侯王もしよく守らば、万物はまさに自ら賓せんとす。天地は相合ひて、以て甘露を降し、民はこれを令するなくして、而も自から均しからん。はじめて制して名あり。名も亦すでにあるも、それ亦止まることを知らんとす。止まることを知るは、殆からざる所以なり。道の天下にあるを譬ふれば、猶ほ川谷の江海に於けるがごときなり。
「道」は永遠に名前を持たない。
「道」の例えとしてよく用いる「樸(あらき)」は、例え小さな存在でも、それを支配することはできない。
君主が「道」を守っていけるならば、人民は自ずと従うであろう。天地は調和し、人民は命令されなくても正しい行いをし、世の中は治まる。
樸が切られ始めると(「道」から物事が外れると)切られたものに対して名がつけられる。名がつけられたならば(名と欲望はセットだからこそ)無欲の立場を守るべきであろう。無欲の立場を知っていることが、危険を免れる手段である。
君主や人民がそのように暮らしていれば、川の水が当たり前のように大海に注ぐように、万物は「道」に帰着する。
第三十三章
人を知るものは智にして、自らを知るものは明なり。人に勝つ者は力ありて、自らに勝つ者は强なり。足ることを知るものは富み、行ひを强むるものは志を有つ。その所を失はざる者は久しく、死するも亡びざるものは壽なり。
他者のことがよくわかる者は知者であるが、自分のことがよくわかる者は明者である。人に打ち勝つ者は力を持つが、自分に打ち勝つものは本当に強い。満足を知るものは富み、力を尽くして万事を行うものは志を果たす。自分のいるべき場所を失わない者は長続きし、死んでも滅びることのない「道」のままに生きた者は長寿である。
第三十四章
大道は汎兮として、其れ左右すべし。萬物はこれに恃みて、以て生ずるも辭せず。功あるも名とし有せず。萬物を愛養して、而も主とならず。小と名くべし。萬物は歸すれども、而も主とならず。名づけて大となすべし。是を以て、聖人は終に自ら大とならず。故によくその大を成すなり。
「道」は溢れ出た水のように、左にも右にも行き渡る。
万物は「道」を頼りに生まれるが「道」はそれらの自生に関与せず任せるだけである。万物が何かを成し遂げても、それを自身の所有とはしない。
「道」はあらゆるものを養い育むが、それらの主人とはならない。
そしていつでも無欲である。
これらの要素から「道」を小と名づけることができる。
また「道」は万物が返っていく場所でもあるから大と名づけることもできる。
以上のことから、君主が大なるものになるためには「道」の小なる性質に従い、自らを大としないことが重要なのである。
第三十五章
大象を執れば天下は往く。往くも而も害せず。安平泰なり。楽と餌とには、過客も止まるも、道の口より出づるは、淡乎としてそれ味ひなし。これを視れども見るに足らず、これを聽けども聞くに足らざるも、これを用ふれば旣󠄁すべからず。
「道」をしっかり守っていると、周りの人々が心を寄せるようになる。「道」を守る人はその人たちを失うことがない。そうした関係は安らかで穏やかな状態になる。
音楽や美食は旅人の足すらも止めるものである。(しかし「道」はそのような類のものではない)
「道」が語りかける言葉には淡々として味がない。
目を凝らしても見ることができず、耳を澄ましても聞くことができない。
しかし、その働きが尽き果てることはない。
第三十六章
これを歙めんと將欲すれば、必ず固くこれを張れよ。これを弱めんと將欲すれば、必ず固くこれを强くせよ。これを廃せんと將欲すれば、必ず固くこれを興せよ。これを奪はんと將欲すれば、必ず固くこれを與へよ。これを微明と謂ふなり。柔は剛に勝ち、弱は强に勝つ。魚は淵より脱すべからず。國の利器は以て人に示すべからず。
ものを縮めたいなら、まずは伸ばしてやることだ。
ものを弱めたいなら、まずは強めてやることだ。
誰かを排除したいなら、まずは挙用することだ。
何かを奪いたいならば、まずは与えることだ。
これらを奥深い明知という。
弱く柔らかいは強く堅いものに勝つ。
魚は川の底にいるからこそ安全なのだ。
このような国の統治に関する方法論は、無闇に人民に示してはならない。
第三十七章
道は常にして爲すことなきも、而も爲さざることなし。侯王もしよく守らば、萬物はまさに自から化せんとす。化して作らんとすれば、吾はこれを鎭するに無名の樸を以てせんとす。無名の樸も、亦まさに欲せざらんとす。欲せずして以て靜なれば、天下はまさに自から正しからんとす。
「道」は常に何事も成していないのに、全てのことを成している。
もし君主がこの「道」を守っていけるのならば、人民はそれに感化される。
もし仮にそれでも人民が欲望を持つようであれば、無欲によってそれを治めるのだ。そうすれば人民は自然と欲望を持たなくなる。人民が欲望を持たずに穏やかであるならば、世の中は必然安定する。
第三十八章
上德は德とせず。是を以て德あり。下德は德を失はざらんとす。是を以て德なし。上德は爲すことなくして、而も爲さざることなし。下德はこれを爲して、而も以て爲すことなし。上仁はこれを爲して、而も以て爲すことなし。上義はこれをなして、而も以て爲すことあり。上禮はこれを爲して、而もこれに應ずることなければ、則ち臂を攘げてこれを仍く。故に、道を失つて而して後に德あり。德を失つて而して後に仁あり。仁を失つて而して後に義あり。義を失つて而して後に禮あり。夫れ禮は、忠信の薄にして、而して亂の首なり。前識者は、道の華にして、而して愚の始なり。是を以て大丈夫は、その厚きに處つて、その薄きに處らず。その實に處つて、その華に處らず。故に、彼を去つて此れを取るなり。
高い徳を身につけた人は徳を意識していない。だから徳がある。
低い徳を身につけた人は徳を失わないように執心している。だから徳がない。
高い徳を身につけた人は世の中に働きかけず、打算がない。
低い徳を身につけた人も世の中には働きかけないが、そこには打算がある。
高い仁(思いやり)を身につけた人は世の中に働きかけるが、何の打算もない。
高い礼(礼儀・振る舞い)を身につけた人は世の中に働きかけ、そこには打算がある。
このように、無為自然の「道」が失われたことによって徳が必要になり、徳が失われることで仁愛が必要になり、仁愛が失われることで社会の統制が必要になり、社会の統制が失われることで礼儀や法律が必要になった。
そもそも礼というものは仁に欠けていて、混乱の始まりである。
先を見通す知識など「道」にとっては「余計なもの」であり、愚かな世界の始まりである。
だから賢者は「道」に従い、礼には従わない。
第三十九章
昔は一を得たる者なり。天は一を得て以て淸く、地は一を得て以て寧く、神は一を得て以て靈となり、谷は一を得て以て盈ち、萬物は一を得て以て生じ、侯王は一を得て以て天下の正となる。そのこれを致すは一なり。天淸きを以てことなければ、將恐らくは裂けん。地寧きを以てすることなければ、將恐らくは發せん。神靈を以てすることなければ、將恐らくは歇ん。谷盈つるを以てすることなければ、將恐らくは竭きん。萬物生ずるを以てすることなければ、將恐らくは滅せん。侯王正しきを以てすくことなく、而も貴高ならば、將恐らくは蹙れん。故に、貴は賤を以て本となし、高きは下きを以て基となすなり。是を以て侯王は自から孤寡不穀と謂ふ。これ、その賤を以て本となすか、あらずや。故に、輿を數ふることを致せば輿なし。琭琭として玉の如く、珞珞として石の如くなるを欲せず。
天は「道」を得て清らかに、地は「道」を得て安らかに、神は「道」を得て厳かに、谷は「道」を得て水が満ち、万物は「道」を得て生まれ、王は「道」を得て天下の長となった。
だから、天がずっと清いままであろうとすれば裂けてしまうし、地がずっと安らかなままでいようとすれば崩れてしまうし、神がずっと厳かでいようとすれば権威を失うし、谷がずっと水で満ちたままでいようとすれば枯れてしまうし、万物がずっと生まれ続けようとすれば滅びてしまうし、王がずっと王であろうとすれば倒れてしまう。
高貴なものは必ず卑しいものを基本としているし、高いものは必ず低いものを基本としている。
だから聖人は自分のことを卑しいものとして称するのだ。
名誉を求めると名誉は無くなってしまう。
だからわたしは美しい玉のようでありたいとは願わず、つまらない石のようでありたい。
第四十章
反は道の動にして、弱は道の用なり。天地萬物は、有より生じ、有は無より生ず。
「道」の運動は必ず「道」に回帰する。
「道」の作用は柔らかく、弱い。
世の中のあらゆるものは形あるものから生まれ、
形あるものは形のないものから生まれる。
第四十一章
上士は道を聞けば、勤めてこれを行ふ。中士は道を聞けば、存るが若く亡ずるが若し。下士は道を聞けば、大いにこれを笑ふ。笑はざれば以て道となすにたらず。故に、建言者にこれあり。明道は昧きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇のが若く、上德は谷の若く、太白は辱の若く、廣德は足らざるが若く、建德は偸れるが若く、質直は渝るが若く、大方は隅なく、大器は晩成し、大音は希聲にして、大象は無形なりと。道は隱れて名なし。それ唯道は善く貸して且く成すなり。
優れた人間は「道」のことを聞くと力の限り実践する。
そこそこ優れた人間は「道」のことを聞くと、それなりに実践し、あるときはそれを忘れてしまう。
くだらぬ人間は「道」のことを聞くと大笑いする。
笑われないようでは「道」とするには足りないのである。このことから次のような格言がある。
本当に明らかな「道」は暗く見え、本当に進んでいく「道」は退いているように見え、本当に平坦な「道」はでこぼこして見える。
最高の徳は空虚に見え、完全なる潔白は汚れているように見え、懐深い徳は何か足りないように見える。
徳を持った人は怠けているように見え、正しさを持った人は変わりやすいように見える。
大いなる四角形には角がなく、大いなる器は出来上がるのが遅く、大いなる音は聞き取ることができず、大いなる姿には形がない。
「道」はどこまでも無限で、名づけることができないものであるが、そもそも「道」だけが万物を手助けし、事柄をうまく成し遂げさせるのである。
第四十二章
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。萬物は陰を負ひて陽を抱く。沖氣以て和することをなす。人の惡む所は、唯孤寡不轂のみ。而して王公は以て稱となす。故に、物或はこれを損して益し、或はこれを益して損するなり。人の敎ふる所は、我もまたこれを敎ふ。强梁なる者は、その死を得ず。吾れ以て敎の父となさんとす。
「道」は無であり有である。
無である「道」は一を生み出し、一は天地という二を生み出し、二に陰陽の気が加わって三を生み出し、三は万物を生み出す。
万物は陰陽の気を持ち、それがうまく交流することで調和を保っている。
人々は孤独を嫌い、善くない者を嫌う。
しかし王はそれを自称している。
物事は減らせば増えることもあり、増やせば減ることもある。
物事を力によって変えようとする者はまともな死に方をしない。
わたしはこれを教えの根本としようと思う。
第四十三章
天下の至柔は、天下の至堅を馳騁し、無有は無間に入る。吾は是を以て無爲の益あることを知るなり。不言の敎と無爲の益とには、天下これに及ぶこと希し。
世の中で一番柔らかいものが、世の中で一番堅いものを動かす。
形のないものが、隙間のないところに入っていく。
わたしはこれらの様子から無為が重要であることを知った。
これらの学びから得られるものと、無為の本質よりも有益なものは、この世の中にほとんど存在しない。
第四十四章
名と身とは孰れか親しきぞ。身と貨とは孰れか多なるぞ。得と亡とは孰れか病なるぞ。甚だ愛すれば必ず大いに費え、多く藏すれば必ず厚く亡ふ。足ることを知れば辱められず。止まることを知れば殆からず。以て長久なるべし。
名誉と身体とでは、どちらが親しむべきものであろうか。
身体と財産とでは、どちらが重要なものであろうか。
得ることと失うことは、どちらが苦しみであろうか。
物を惜しめば必ず大いに散財することになり、蓄財すれば必ず失う羽目になる。
満足することを知っていれば辱めを受けることはない。
止まることを知っていれば危険を免れることができる。
そして長く生きることができる。
第四十五章
大成は缺けたるがごときも、その用は弊ならず。大盈は沖しきがごときも、その用は窮まらず。大直は屈せるがごとく、大功は拙なるがごとく、大辯は訥なるがごとし。躁は寒に勝ち、靜は熱に勝つも、淸靜は天下の正たり。
大いなる完成は欠けているように見えるが、その働きは衰えない。
大いなる充実は空っぽのように見えるが、実際は満たされている。
大いなる直線は曲がっているように見え、大いなる技術は稚拙に見え、大いなる弁論は口下手のように見える。
活発に動けば寒さに打ち勝ち、じっとしていれば暑さにも打ち勝つ。
シンプルかつ静かでいれば、それは世の中の規範となる。
第四十六章
天下に道あれば、走馬を却けて以て糞するも、天下に道なければ、戎馬は郊に生ぜん。罪は欲すべきよりも大なるはなく、禍は足ることを知らざるよりも大なるはなく、咎は得んと欲するより大なるはなし。故に、足ることを知るの足るは、常に足るなり。
世の中で「道」が行われていれば、馬は戦争ではなく農耕に使われる。
欲望が大きいことよりも大きな罪はなく、何かを手に入れようとすることよりも大きな過ちはなく、満足を知らないことよりも大きな悪はない。
満足を知って満足することは、永遠に満足することと同義である。
第四十七章
戶より出でざるも天下を知り、牖より窺はずして天道を見る。その出づること彌遠ければ、その知ること彌少し。是を以て聖人は行かずして知り、見ずして名に、爲さずして成すなり。
外に出なくても世の中のことはわかる。
窓から外を見なくても世界の法則はわかる。
むしろ遠くに行けば行くほど「道」のことはわからなくなるのだ。
賢者はどこにも行かないで分かり、何も見ないでも知り、何もしないでも成し遂げるのである。
第四十八章
學を爲むれば日に益し、道を爲むれば日々に損す。これを損してまた損し、以て爲すなきに至る。爲すなくして而も爲さざることなきなり。故に、天下を取るには、常に事なきを以てす。事あるに及べば、以て天下を取るに足らざるなり。
学問を志す者は日々知識を増やしていくが「道」を志す者は日々欲望を減らしていく。そうして欲望を減らしていくと、いずれ何事も成さない境地まで行き着く。何事も成さないのに、全てのことを成している境地だ。
天下を治めるためには、いつでも何事も成さないようにすることだ。
何か策を巡らすのは、天下統治の役にも立たない。
第四十九章
聖人には常の心なく、百姓の心を以て心となす。善なる者は吾これを善とし、不善なる者も吾またこれを善とす。徳善なればなり。信なる者は吾これを信とし、不信なる者も吾またこれを信とす。徳信なればなり。聖人の天下にあるや、惵惵として天下のために、その心を渾にす。百姓は皆その耳目を注ぐ。聖人は皆これを孩にす。
聖人はいつでも無心であり、人民の心を自分の心とする。
仮に人民が善良でもそうでなくても、それを「善良である」とし
仮に人民が誠実でもそうでなくても、それを「誠実である」とし
そうするからこそ、人民の徳は善良で誠実なものとなる。
聖人が国を治める際には、心を穏やかに、個人的な好き嫌いをなくすべきである。人民はそれぞれ頭を叩かせて様々なことをするが、聖人にとってみれば彼らは赤子のようなものである。
第五十章
生に出れば(これ)死に入るなり。生の徒は、十に三あり。死の徒は、十に三あり。民の生んとして、動もすれば死地に之く(もの)、また十に三あり。それ何の故ぞ。その生を生とすることの厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を攝する者は、陸行するも、兕虎に遇はず。軍に入るも、甲兵を避けずと。兕はその角を投ずるところなく、虎はその爪を措くところなく、兵もその刃を容るるところなき(がため)なり。それ何の故ぞ。その死地なきを以てなり。
人は生まれ、そして死んでいく。
そのうち、生を全うする者が3/10、早死にする者が3/10、そして生に執着するあまり無駄な行動をして死地に向かう者が3/10ある。
彼らはなぜ死に急ぐのか。それは生に執着するからである。
うまく生を全うする者は、獰猛な動物(サイやトラ)に出会ってもこれを避けることをしないし、戦地においても甲冑や武器を身につけようとしない。
そうした者を獰猛な動物は攻撃することができないし、武器を持った者も攻撃することができない。一体、それはなぜなのか。
それは、そもそも彼らは死ぬいわれがないからである。
第五十一章
道はこれを生じ、德はこれを畜ひ、物はこれを形し、勢はこれを成すなり。是を以て、萬物は道を尊び、德を貴ばざるはなきなり。道の尊き、德の貴きは、それこれを爵することなくして、而も常に自から然るなり。故に、道はこれを生じ、德はこれを畜ひ、これを長じ、これを育し、これを成し、これを熟し、これを養ひ、これを覆ふなり。生ずるも有せず。為すも恃まず。長ずるも宰せず。これを玄德と謂ふ。
「道」が万物を創造し、徳がそれらを育てる。それによって万物には物としての形が与えられ、何かの働きを持つものとして表象する。
だから万物は、例外なく「道」を尊び、徳を尊ぶのである。
「道」や徳が尊いのは、それを誰かがそう決めたからではなく、最初からそういうものだからである。
だから「道」は万物を創造し、育て、成長させ、形を定め、働きを作り、慈しみ、庇護する。しかし、生育してもそれを所有することはなく、成長させても支配することがない。
このような「道」の在りようを奥深い徳と表現するのだ。
第五十二章
天下に始ありて、以て天下の母たり。旣にその母を得て、以てその子を知り、復してその母を守らば、身を沒するも殆からざるなり。その兌を塞ぎ、その門を閉づれば、身を終るとも勤れず。その兌を開き、その事を濟さば、身を終るとも救はれざるなり。小を見るを明と曰ひ、柔を守るを强と曰ふ。その光を用ふるも、その明に復歸すれば、身に殃を遺󠄃すことなし。これを襲常と謂ふなり。
この世界には始まりがある、この始まりを母と呼ぼう。
始まりである母のことが理解できたら、子である世界ことも理解できるはずである。その子を知ったからには、その母を守るべきである。そうすれば、生を全うすることができる。
欲望の原因になる目や耳を塞ぎ、欲望が生じる心の門を閉じれば、一生疲れることはない。
逆に、欲望の穴を開き、欲望に身を任せる生活をすれば、一生癒されることはない。
小さなものまで見渡せることを明といい、柔らかさを守っていくことを強という。
以上の知識を前提に、明と強の状態を保持すれば、我が身に災厄が降りかかることはない。
このような振る舞いのことを恒常の「道」に従うという。
第五十三章
我をして介然として知どることありて、大道󠄃を行はしめんとするも、ただ施なるをこれ畏る。大道󠄃は甚だ夷かなるも、而も民は徑を好むなり。朝󠄃は甚だ除し、田は甚だ蕪れ、倉は甚だ虛し。文󠄃綵を服し、利劍を帶び、飮食󠄃に厭き、財貨󠄃は余り有り。これを盜竽と謂ふ。非道󠄃なるかな。
わたしに確かな知恵があるならば、わたしは大きな「道」だけを歩き、脇道に入ることを恐れ、近道をすることを忌避する。
大きな「道」は平坦なのにもかかわらず、人民は常に近道を探すものである。
畑は荒れ放題だし、食料は足りないのに、政治側の人間はきらびやかな服を着て、立派な剣を腰に差し、飽きるほど飲み食いし、財産が有り余っている。
これはまさに盗人の親玉である。「道」ではない。
第五十四章
善く建󠄄つるものは抜けず、善く抱󠄃くものは脫せず。子孫は以て祭祀して輟まず。これを身に修むれば、その德は乃ち眞󠄃。これを家に修むれば、その德は餘あり。これを鄕に修むれば、その德は乃ち長し。これを國に修むれば、その德は乃ち豐かなり。これを天下に修むれば、その德は乃ち普し。故に、身を以ては身を觀、家を以ては家を觀、鄕を以ては鄕を觀、國を以って國を觀、天下を以ては天下を觀る。吾何を以て天下の然ることを知るや。これを以てなり。
しっかり建てられたものは引き抜かれず、しっかり抱えられたものは奪われない。そのようにすれば、子孫は長く繁栄するものである。
「道」を修めると、その者の徳は充実したものになる。
家を治める者が「道」を修めると、その家は有り余るほど豊かになる。
共同体を治める者が「道」を修めると、共同体は長く存続する。
自治体を治める者が「道」を修めると、自治体はより力を持つ。
国を治める者が「道」を修めると、国の幸福は人民の幸福と一致する。
だから重要なのは、個人としての「道」によって個人を観察し、家を治める「道」によって家を観察し、共同体を治める「道」によって共同体を観察し、自治体を治める「道」によって自治体を観察し、国を治める「道」によって国を観察することだ。
このようにして国を治める者が「道」を修めているかを観察することで、国の状況がありありとわかるというものだ。
第五十五章
含德の厚きは、赤子に比す。毒蟲も螫さず、猛獸も據らず、攫鳥も搏たず。骨は弱󠄃く筋は柔らかにして、而も握ることは固し。いまだ牝牡の合ふことを知らざるも、而も䘒の作るは、精の至りなり。終日號べども、而も嗌の嗄れざるは、和の至りなり。和を知るを常と曰ひ、常を知るを明と曰ひ、生を益すを祥と曰ひ、心の氣を使ふを强と曰ふ。物は壯なれば則ち老ゆ。これを不道と謂ふ。不道なれば早く已なり。
豊かな徳を持っている人は、赤子に喩えられる。
赤子には、猛獣も虫も蛇も、刺したり噛んだりしない。
骨は弱く筋力もないのに、しっかりと拳を握っている。
男女の交わりを知らないのに性器が反応するのは、精気が充実しているからである。
一日中泣き叫んでも声が枯れないのは、力に満ちているからである。
赤子の在り方は恒常的な在り方である。恒常的な在り方を知ることを明知と呼ぶ。赤子は恒常的な在り方を知らないが、恒常的な在り方を表現する。
生きることに執着することは災いである。欲望が気持ちを動かすことを無理強いという。
物事が盛んになれば、必ず衰退する。このことを「道」に適っていないというのだ。「道」に適っていなければ早く滅びる。
第五十六章
知る者は言はず、言ふ者は知らざるなり。その兌を塞ぎ、その門を閉ぢ、その銳を挫き、その紛を解き、その光を和げ、その塵に同じくす。これを玄同と謂ふ。故に、得て親むべからず。また得て疎んずべからず。得て利すべからず。また得て害すべからず。得て貴くすべからず。また得て賤くすべからず。故に、天下の貴となるなり。
聖人は、ものを言わず、ものを言う人は聖人ではない。
聖人は、欲望の原因となる目や耳を塞ぎ、欲望が生じる心の門を閉ざす。
知恵の傲慢さを緩め、知恵によって起こる問題を遠ざけ、知恵の光を和らげ、人民に同化する。これを「道」との合一という。
だから、人民は聖人と親しむこともできず、また疎むこともできない。
利益を与えることもできないし、損害を与えることもできない。
尊敬することも、貶すこともできない。
だから聖人は世の中の尊い存在でいられるのだ。
第五十七章
正を以ては國を治め、奇を以ては兵を用ふ。無事を以ては天下を取るなり。吾は何を以てその然るを知るや。これを以てなり。天下に忌諱を多くすれば、而も民はいよいよ貧し。民に利器を多くすれば、國家はますます昏し。人に技巧を多くすれば、奇物はますます起る。法令ますます彰かにならば、盜賊はあること多し。故に、聖人は云ふ、「我は無爲なるも、而も民は自から化す。我は靜を好むも、而も民は自から正しし。我は無事なるも、而も民は自ら富む。我は無欲なるも、而も民自ら朴なり。」と。
「道」によって国を治め、奇策によって戦をし、事を起こさないことで天下を統治する。なぜわたしにそのようなこと(国の治め方)が分かるのか。
世の中に禁止事項が多くなればなるほど、人民は離れていく。
世の中に武器が増えれば増えるほど、国家は混乱する。
世の中の技術が進化すればするほど、犯罪は増える。
世の中の法律が細かくなればなるほど、盗賊はたくさん現れる。
だから聖人は言う。
わたしが何もしないことで、むしろ人民は自ずと治まる。
わたしが静かにしていると、人民も自ずと正しくなる。
わたしが事を起こさないと、人民は自ずと豊かになる。
わたしが欲を持たないと、人民は自ずと素朴である。と。
第五十八章
その政悶悶なれば、その民は醇醇たらん。その政察察たれば、その民は缺缺たらん。禍󠄃は福󠄃の倚る所󠄃にして、福󠄃は禍󠄃いの伏する所󠄃なり。孰かその極を知らんや。それ止ることなきなり。正は復すれば奇となり、善は復すれば妖となる。人の迷ふや、その日固に久し。是を以て、聖人は方なれど割かず、廉󠄃なれども劌らず、直なれども肆ならず、光あれども耀かざるなり。
政治が大まかであれば、人民は素朴である。
政治が細かければ、人民は狡くなる。
災いと幸福は隣り合っている。災いには幸福が寄り添っているし、幸福には災いが潜んでいる。だが、誰がこの究極を知っているだろうか。
そもそも、絶対的な真などないのだ。
正常はときに異常となり、善はいつでも悪となり得る。
人々はこの相対を(絶対として見ることで)はるか昔から迷い続けている。
だから聖人は、品行方正であって人を傷つけず、切れ味が鋭くても人を刺さず、実直であってもそれを押し通さず、輝いていても人の目を眩ますことがないのだ。
第五十九章
人を治め天に事ふるには、嗇にしくはなし。それただ嗇なる、これを早復と謂ふ。早復は、これを重積德と謂ふ。重積德なれば、則ち剋せざることなし。剋せざることなければ、則ちその極を知ることなし。その極を知ることなければ、以て國を有つべし。國を有つの母は、以て長久なるべし。これを深根固蒂󠄁、長生久視󠄃之道と謂ふなり。
人々を治め、天下を統治するのに、ケチであることに勝るものはない。
そもそもケチだからこそ、より早く「道」に従うことになる。
より早く「道」に従えば、それは徳を積むことである。
徳を積めば負けることはない。負けることがなければ、その力は限界を知ることがない。限界を知ることがない力があれば、国は治る。
つまりケチであることは、国を長く保つ最良の姿勢なのである。
このことを深くしっかりと根を下ろし、長く生きながらえる「道」という。
第六十章
大國を治むるは、小鮮を烹るがごとし。道を以て天下に莅めば、その鬼も神󠄃ならず。その鬼の神󠄃ならざるのみにはあらず、その神󠄃も人を傷らず。その神󠄃も人を傷らざるのみにはあらず、聖󠄃人もまた人を傷らざるなり。それ兩ながら相傷らず。故に德は交歸するなり。
大国を治めるためには、小魚を煮るときのように無闇に掻き回さないほうが良い。
「道」によって天下を治めれば、(鬼や精霊による)祟りなどは起きない。祟りが起きないばかりか、祟りが人に害を与えることもなくなる。同じように、聖人も人々に害を与えることがない。こうして(「道」に従った統治を行うことで)祟りも人も人民に害を与えることがなく、その恩恵が人々に降り注ぐのである。
第六十一章
大國は下流にして、天下の交なり。天下の牝なり。牝は常に靜を以て牡に勝󠄃つ。靜を以て下ることをなすなり。故に、大國以て小國に下れば、則ち小國を取り、小國は以て大國に下れば、則ち大國を取らる。故に、或は下りて以て取り、或は下りて而も取らる。大國は人を兼󠄄ね畜はんと欲するに過ぎず。小國は入りて人に事へんと欲するに過ぎず。それ兩者は、おのおのその欲する所󠄃を得るなり。故に、大なるものは宜しく下ることをなすべし。
大国は川の下流に位置するような存在であるべきだ。
そこは天下の流れが交わるところであり、とても女性的である。
女性はいつも静か(へりくだる)であることによって男性に勝る。
だから、大国が小国にへりくだれば小国の信頼が得られるし、小国が大国にへりくだれば大国に受容される。へりくだることによって、信頼を得られることもあれば、受容されることもあるというわけだ。
大国は小国の人民を養おうとし、小国は大国の傘下に入って仕えようとする。こうした場合、それぞれの立場が望むことを実現するためには、大きいものの方が率先してへりくだるのが最良である。
第六十二章
道は萬物の奧、善人の寶、不善人の保つ所󠄃なり。美言は以て市るべく、尊行は以て人に加ふべし。人の不善なる、何の棄つることかこれあらん。故に、天子を立て、三公を置くなり。拱璧の以て駟馬に先だつことありと雖も、坐がらにしてこの道を進むには如かず。古のこの道を貴ぶ所󠄃以のものは何ぞや。求むれば以て得、罪あるも以て免󠄄ると曰はずや。故に、天下の貴となるなり。
「道」とは万物の根本にあるものだ。
善人が守るものであり、善人でない人は「道」に守られる。
飾り立てた言葉で名声を得る人もいるし、立派な行動で評価される人もいるのだから、善人でないというだけで、どうしてその人を見捨てることができるだろうか。
天子の即位や大臣の任命の時に豪華な宝物を四頭立ての馬車に載せて献上する習慣があるが、こんなことをするよりも、ただただ「道」を守るように進言した方が良い。
昔から「道」が大事にされてきた理由はなんだろうか。
「道」を求めれば何かが得られ、罪があっても「道」によって救われる。
「道」は全ての人に平等に必要なものだから、世の中で最も貴いものとされるのだ。
第六十三章
無爲を爲し、無事を事とし、無味を味ひ、小を大とし、少を多とし、怨に報ゆるに徳を以てす。難󠄄をその易に圖り、大をその細になす。天下の難󠄄事は必ず易より作り、天下の大事は、必ず細より作る。是を以て、聖人は終に大をなさず。故に、能くその大をなすなり。それ輕諾は必ず寡信にして、多易は必ず多難󠄄なり。是を以て、聖人すら猶ほこれを難󠄄しとす。故に、終に難󠄄きことなきなり。
何も為さないということを為し、何もないということを「ある」とし、何も味がないということを味とする。
小さいものを大きいものとし、少ないものを多いものとする。
恨みには得で報い、難しいことはそれが優しいうちに取り組み、大きいことはそれが小さいうちに対処する。
世の難しいことは、必ず最初は易しいのであり、世の大きなことは、必ず最初は些細なことから起こるのである。
聖人は、大きなことを行わない。(小さなことを積み重ねる)だから大きなことを成せるのだ。
安請け合いをすれば信用を失うし、問題を簡単なことだと見くびれば困難な目に遭う。聖人は物事を難しいこととして取り扱う。
だから、聖人は困難に出会うことがない。
第六十四章
その安きは持し易く、その未だ兆さざるは謀り易く、その脆きは破り易く、その微なるは散じ易し。これを未だ有らざるになし、これを未だ亂れざるに治む。合抱の木も、毫末より生じ、九層󠄃の臺も、累土より起り、千里の行も、足下より始まるなり。爲す者はこれを敗り、執る者はこれを失ふ。聖人は爲すことなし。故に敗るることなし。執ることなし。故に、失ふこと無し。民の事に從ふや、常にほとんど成らんとするに於て、これを敗る。終を愼しむこと始の如くなれば、則ち敗るることなきなり。是を以て、聖人は欲せざるを欲して、得難きの貨を貴ばず。學ばざるを學びて、衆人の過ぐる所に復にし、以て萬物の自然を輔けて、敢て爲さざるなり。
安定しているうちは捕まえやすく、兆しがないうちは解決しやすい。
脆いうちは壊れやすく、微かなうちは散らばりやすい。
事が起きないうちに対処し、乱れないうちに治めることだ。
大木も小さな芽から成長するし、高層ビルも基礎から作り上げられるし、千里の道も一歩から始まる。
何かについて、余計なことをする者は失敗するし、無理に捉えようとするものはそれを失ってしまう。だから聖人は、余計なことをしないし、無理に捕まえようとしない。だから失敗しないのだ。
人々が何かを行うとき、多くの場合は成就しそうなタイミングで失敗をする。最後の部分を始めのときと同様に慎重にすれば、失敗することはないのだ。
第六十五章
古の善く道を爲むる者は、以て民を明かにするにはあらず。將に以てこれを愚にせんとするなり。民の治め難きは、その智の多きを以てなり。智を以て國を治むるは、國の賊なり。智を以て國を治めざるは、國の福󠄃なり。この兩者を知るは、また楷式なり。常に楷式を知るは、これを玄德と謂ふ。玄德は深し遠し。物とは反せり。乃ち大順に至るなり。
昔の聖人は、人民を聡明にしようとはせず、むしろ愚かにしようとした。
人民を治めるのが難しいのは、人民に知恵があるからである。
だから知恵を駆使して国を治めれば失敗するし、知恵を放棄して国を治めれば豊かになる。
これは国を治める法則であり、奥深い徳(玄徳)でもある。
玄徳は捉えようもなく、万物と同じく帰るべき場所に帰る。
つまりこれは大いなる循環によって無為自然に至る「道」なのである。
第六十六章
江海󠄃のよく百谷の王たる所󠄃以のものは、そのよくこれに下るを以てなり。故に、よく百谷の王となるなり。是を以て、聖人は民に上たらんと欲せば、必ず言を以てこれに下り、民に先だたんと欲せば、必ず身を以てこれに後るるなり。是を以て聖人は、聖人は上に處るも、而も民は重しとせず、前に處るも、而も民は害とせざるなり。是を以て、天下は推すことを樂しみて、而も厭はず。その爭はざるを以ての故に、天下はよくこれと爭うことなきなり。
海が数百もの川の王者たりうるのは、海が十分に低い位置にあるからである。低い位置にあるから数百の川の王者たりうるのだ。
だから聖人が人民の上に立とうと思うなら、謙虚な言葉でへりくだり、人々の先に立とうと思うなら、我が身のことを後にすべきである。
そのような聖人が人民の上にいても、人民はそれを重いと思わず、前にいてもそれを障害とは思わない。
だからこそ世の中の人々は、聖人を喜んで尊敬するのである。
そもそも聖人は誰とも争わないのだから、人々は誰も彼と争うことができない。
第六十七章
天下はみな我を大なれども不肖󠄃に似たりと謂ふも、それただ大なるが故に、不肖󠄃に似たるなり。もし肖󠄃ならば、久しきかなその細なること。我に三寶あり。寶としてこれを持す。一に曰く〔ママ〕慈。二に曰く、儉。三に曰く、敢て天下の先とならざること。慈なるが故に、よく勇なり。儉なるが故に、よく廣し。敢て天下の先とならざるが故に、よく成器󠄃の長たり。今は慈を捨󠄃ててまさに勇ならんとし、儉を捨󠄃ててまさに廣からんとし、後たることを捨󠄃ててまさに先たらんとす。死なるかな。それ慈は以て戰へば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天はまさにこれを救ひ、慈を以てこれを衞らんとす。
世の人々はわたしのことを「偉大だけど同時に愚かにも見える」という。
そもそも、偉大だからこそ愚かに見えるのである。
仮にわたしが賢ければ、とっくに小狡い者になっていたことだろう。
わたしには大事にしている三つの宝がある。
一つは慈悲。二つ目に倹約。最後に人々の先頭に立たないことである。
慈悲深いから勇敢でもあるし、倹約であるから心が広くなる。
そして人々の先頭に立たないから、人々を導ける者になりうるのだ。
もし今、慈悲を捨てて勇敢になろうとしたり、倹約を捨てて心を広く持とうとしたり、人の後になることを捨てて先頭に立とうとすれば、それは失敗するだろう。
慈悲があれば戦に勝ち、慈悲があれば国は守られる。
天もそんな慈悲深い人々を守ろうとするものである。
第六十八章
善く士たる者󠄃は、武からず。善く戰ふ者󠄃は、怒らず。善く敵に勝󠄃つ者󠄃は、爭はず。善く人を用ふる者󠄃は、下となる。是を爭はざるの徳と謂ふ、是を人を用ふるの力と謂ふ、是を天に配すと謂ふ。古の極なり。
優れた武将は猛々しくない。優れた戦士は怒りを見せない。上手に敵に勝つ者は敵とまともに戦わない。うまく人を使う者は常にへりくだる。これらは争わない徳といい、人の能力をうまく使うともいい、天に匹敵するともいう。
昔から伝わる、至高の道理である。
第六十九章
兵を用ふるに言へることあり。吾は敢て主とならずして、而も客となり、敢て寸を進めずして、而も尺を退くと。是を行くに行なく、攘ぐるに臂なく、扔くに敵なく、執るに兵なしと謂ふ。禍は敵を輕んずるより大なるはなし。敵を輕んずるは、吾が寶を喪ふに幾し。故に、兵を抗げて相加ふるに、哀む者は勝つなり。
兵法に以下のような言葉がある。
「自ら攻めるのではなく、むしろ守りにまわれ。無理に進もうとするな、むしろ退け」
これは「行軍のための道がない」「振り上げるための腕がない」「命令するための兵がいない」「攻撃するための敵がいない」と同様のことである。
敵をあなどるよりも悪いことはなく、そうすれば大事な宝(六十八章参照)を失ってしまうだろう。両軍の兵力が拮抗しているときには慈悲深い方が勝つのである。
第七十章
吾が言ふことは、甚だ知りやすく、甚だ行ひやすきに、天下よく知ることなく、よく行ふことなし。言には宗あり。事には君あり。それただ無知なり。是を以て、我を知らざるなり。我を知るもの希なれば、則ち我は貴し。是を以て、聖人は褐󠄃を被るも玉を懷くなり。
わたしがいうことは、とてもわかりやすく、とても実行しやすい。
しかし、人々はそれを理解せず、実行もできない。
わたしの言葉には要点があり、行動には趣旨があるのだが、人々はそれを理解できない。だからわたしのことが理解できないのだ。
そのように、わたしのことを理解する人がほとんどいないから、わたしは貴いのだ。それゆえ、聖人は薄汚い格好をしているとしても、懐には素晴らしい宝を抱いているのである。その宝を上部から理解することはできない。
第七十一章
知りて知らずとするは上にして、知らずして知るとするは病なり。それただ病を病とす。是を以て、病ならず。聖人の病ならざるは、その病を病とするを以てなり。是を以て、病ならず。
知っていても知らないと思うのが最善である。
知らないのに知っていると思うのは病である。
聖人に欠点がないのは、欠点をそのまま欠点とするからだ。
欠点をそのまま欠点とするからこそ、欠点がなくなるのだ。
第七十二章
民威を畏れざれば、大威は至らん。その居るところを狹しとすることなかれ。その生とするところを厭ふことなかれ。それただ厭はず。是を以て、厭はざるなり。是を以て、聖人は自から知れるも、自からを見はさず。自から愛するも、自からを貴しとせざるなり。故に、彼を去りて此を取る。
人々が君主の権威を畏れなくなることは、大変由々しき事態である。
だから、人々の住む場所を圧迫してはならない。人々の仕事を奪ってはいけない。それをしなければ、どうして人々が君主を嫌うのだろうか。
それゆえ、聖人は自らの知識をひけらかすことなく隠れて生きて、自らを愛しつつも自分を特別な人間だとは思わない。そのようにして自分を捨て、無為自然に対応した政治を選ぶのである。
第七十三章
敢に勇なれば則ち殺。不敢に勇なれば則ち活。この兩者は、或は利にして、或は害なり。天の惡む所󠄃、孰かその故を知らんや。是を以て、聖人も猶󠄄ほこれを難しとするがごとし。天の道は、爭はずざるも、而も善く勝ち、言はざるも、而も善く應じ、召かざるも、而も自ら來り、繟然たるも、而も善く謀るなり。天網は恢恢なれば、疎なるも而も失はざるなり。
果敢に行動したものが殺され、臆病に逃げ惑ったものが生き残る。天がどちらの人間を選ぶのか、それを理解することは難しい。それゆえ、聖人であろうとも、自然の道理を知ることは難しいのである。
「道」は争わずに勝ち、何も言わずに応答をし、招いていないのに到来し、無限に大きいにも関わらず完璧に調和している。
天の「道」による裁きは、洗い網のように見えて、その実何事も見逃すことがないのである。
第七十四章
民死を畏れざれば、奈何してか、死を以てこれを懼さんや。若し民をして常に死を畏れしめ、而して奇をなす者を、吾執つて殺すことを得ば、孰か敢てせんや。常に殺を司るものありて殺す。それ殺を司どるものに代つて殺すことを、これを大匠に代つて斲ると謂ふなり。それ大匠に代つて斲るものは、手を傷らざることあること希し。
もしも人々が死を恐れなくなれば、死刑になんの意味があるだろうか。
人々が死を恐れ、なおかつ悪い行いを行った場合、それを捕まえて死刑に処すこともできる。しかし、その刑は誰が執行するのであろうか。
その刑を執行すべきなのは人の生死を司るものである。
生死を司るものに代行して刑を執行するというのは、素人が大工に変わって家を建てるようなものである。そのような無理をすれば、結果的に自らが傷つくこととなる。
第七十五章
民の饑ゆるは、その上の稅を食むことの多きを以て、是を以て饑ゆるなり。民の治め難きは、その上の爲すことあるを以て、是を以て治め難きなり。民の死を輕んずるは、その生を求むることの厚きを以て、是を以て死を輕んずなり。それ惟生を以て爲すこと無きものは、これ生を貴ぶより賢れり。
人々が飢えるのは、君主が税を取りすぎるからである。
人々が治まらないのは。君主が余計な政策を行うからである。
人々が死を軽んじるのは、君主が我が身ばかり大切にしているからである。
生きることに囚われない者こそ、生きることを重視する者よりも優れている。
第七十六章
人の生まるるや柔弱󠄃にして、その死するや堅强なり。萬物草木の生ずるや柔脆にして、その死するや枯槁す。故に、堅强なるものは、死の徒にして、柔弱󠄃なるものは、生の徒なり。是を以て、兵强ければ則ち勝たず。木强ければ則ち共せらる。强大は下に處り、柔弱󠄃は上に處るなり。
人は生きているは柔らかいが、死ぬと硬くなる。
植物は生きているときはみずみずしいが、死ぬと枯れて硬くなる。
以上のことから、硬いものは死の仲間、柔らかいものは生の仲間だといえる。
それゆえ、武器は硬ければ相手に勝てないし、木は硬いからこそ伐採される。
強くて大きく硬いものは下位になり、弱くて小さく柔らかいものは上位になる。
第七十七章
天の道は、それ猶󠄄ほ弓を張るが如きか。高きものはこれを抑へ、下きものはこれを擧げて、餘りあるものはこれを損じ、足らざるものはこれを補ふなり。天の道は、餘りあるを損じて、而も足ざるを補ふも、人の道は、則ち然らず。足らざるを損じて、以て餘りあるに奉ずるなり。孰か能く餘りありて、以て天下に奉ぜんや。ただ有道者なり。是を以て、聖人は爲すも恃まず。功成るも處らず。そは賢を見すこと欲せざるなり。
「道」の原理は弓を引くときに似ている。
上の部分を下に引き下げ、下の部分を上に引き上げる。
弦の長さが長ければ短くし、短ければ長くする。
このように「道」は余ったものを減らし、足りないものを足すといった具合に調和を作り出している。
しかし人々のやり方は全く違う。
彼らは足りないところからさらに奪い、余ったところにさらに足している。
そんな中で、自らに余りあるものを他人に分け与えるのは誰であろうか。
それは「道」を体得した聖人である。
聖人は、恩を与えても施しを求めず、成功しても功績に安住せず、自分の賢さを示すようなことがない。
第七十八章
天下の柔弱󠄃は、水に過ぐるはなし。而して堅强を攻むるものにして、これに能く勝ることなきは、その以てこれに易ふることなきを以てなり。弱󠄃の强に勝ち、柔の剛に勝つことは、天下に知らざる(もの)なきも、能く行ふ(もの)なし。故に、聖人は云へり、國の垢を受くる、これを社󠄃稷の主と謂ひ、國の不祥󠄃を受くる、これを天下の王と謂ふと。正言は反するがごとし。
この世に水以上に柔らかくてしなやかなものは存在しない。
それでいて、堅くて強いものを攻めるのに、水よりも適切なものはない。
水本来の性質を変えるような存在は世の中のどこにも存在しない。
弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが堅いものに勝つ。
これらは人々に周知されたことであるが、これを実行できる人間はまずいない。
だから聖人はこう言う。
「国の屈辱を甘んじて受け入れる者、それが君主である。
国の災いをそのまま受け入れる者、それが王である。」
正しい言葉は、ときに常識からかけ離れるものである。
第七十九章
大怨を和するも、必ず餘怨あり。安んぞ以て善となすべけんや。是を以て、聖人は左契を執つて、而も人を責めず。有德は契を司どり、〔ママ〕無德は徹を司どる。天道には親なし。常に善人に與す。
恨みによる遺恨を無理やり和解させても、恨みが残り続けるだけである。
それは善いこととは言えないだろう。
だからこそ聖人は、仮に法や慣習によって自分に正義があろうとも、相手を責めたりすることはない。聖人は淡々と債権を処理するだけである。徳のないものは無理な取り立てをする。天の裁きに贔屓はない。常に善人に味方するのだ。
第八十章
小國にして寡民。什伯の器󠄃あるも、而も用ひざらしめ、民をして死を重んじて、而も遠く徙らず、舟轝有りと雖も、これに乘る所なく、甲兵ありと雖も、これを陳する所なからしめ、民をして復繩を結びて、これを用ひ、その食を甘しとし、その服を美なりとし、その居に安しとし、その俗を樂しみとし、鄰國相望み、雞狗の聲相聞こゆるも、民は老死に至るまで相往來せざらしめん。
国を小さくし、人民を少なくする。
仕事を効率化させる道具があってもこれを使用しない。
住民にはそれぞれ命を大切にさせ、移住を禁ずる。
船や車があっても使用せず、武器があっても使わない。
住民にはなるべく昔ながらの暮らしをさせる。
自分達の食べ物、衣服、住居、習慣。これに満足し善いものとする。
隣の国がすぐ近くにあり、そこから楽しそうな声が聞こえてきても、住民は死ぬまで、隣の国と行き来することがない。
第八十一章
信言は美ならず。美言は信ならず。善者󠄃は辯ならず。辯者󠄃は善ならず。知者󠄃は博󠄄からず。博󠄄き者󠄃は知らず。聖人は積まず。旣く以て人のためにして、己はいよいよ有す。旣く以て人に與へて、己はいよいよ多し。天の道は、利して害せず。聖人の道は、爲して爭はざるなり。
信用できる言葉には飾り気がなく、飾られた言葉は信用ならない。
善人は多くを語らず、多くを語るのは善人ではない。
知恵のある人は物知りではなく、物知りなのは知恵のない人である。
「道」を知った聖人は、蓄えることなく、人々のために行動し、大切なものを手に入れる。人々に何もかも与えるが、かえって心は豊かになる。
天が万物を害することなく潤すように、聖人も人々を害することなく豊かにするのである。