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アンガージュマン|サルトル【君のための哲学#29】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



実存は本質に先立つ


歴史上、ノーベル賞を辞退した人物が三名いる。
平和賞(1973年)を「ベトナムはまだ平和になっていないから」という理由で辞退したレ・ドゥク・トと、文学賞(1958年)をソ連の政治的問題で辞退したパステルナーク。そして文学賞(1964年)を辞退したジャン=ポール・サルトル(1905年-1980年)である。
彼のノーベル賞辞退の理由は長年不明だったが、彼の死後、そのときの声明が発表されている。曰く「ノーベル賞が自分の名誉を絶頂に押し上げてしまうとしたら、自分の自由と力を使って『自分自身で目指すべき絶頂』に達することができなくなってしまう」
この言葉に、サルトルの実存主義的な思想が目指す方向性が凝縮されている。
彼は「実存は本質に先立つ」と言った。世の中にある多くの事物の本質は存在に先立っている。例えばハサミ。ハサミはそれが生み出される前から"ハサミ"としての本質を持っている。ハサミはものを切るという本質を前提に生み出される存在である。つまり、ハサミにおいては「本質は存在に先立つ」わけだ。しかし、人間は違う。人間にはハサミのような「先立つ本質」がない。
人間には特定の「こうするべき」がない。言い換えればどこまでも自由な存在が人間なのである。


君のための「アンガージュマン」


サルトルは即自対自という用語を用いた。(それ以前にヘーゲルもこの概念を用いていた)

即自→あるところのものであり、あらぬところのものであらぬもの
対自→あるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの

簡単にいえば、即自とは”もの”のように「あらかじめあり方が規定されている」存在を、対自とは「あり方の規定がなく予想もつかないありかたをする」存在を指している。もっと簡単にいえば【即自=もの】【対自=人間】である。
私たちが何かを意識するとき。私たちは対象を「私ではないもの」として、同時に自分を「それではないもの」として認識している。そういう認識をする存在は人間だけであると、サルトルは主張する。
そして人間は「これはこれではない」という意識を連続して想起しており、そのような資質があるからこそ、未来の可能性を選択できるのだと彼は考えた。私たちは常に過去の自分から脱出し、未来に向かって自分を投げかける(投企する)存在なのだ。
その意味で人間は徹底的に自由である。しかしその自由は必ずしもポジティブなものではない。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言った。私たちはさまざまな選択肢を自由に選び取ることができるが、選択した行為に伴う責任を自分で負わなくてはならない。また、選択の正しさを教えてくれる存在はこの世にない。人間にとって自由とはある種の苦痛である。
では、私たちは何を目的に生きていけば良いのか。サルトルはここでアンガージュマンという概念を提示する。アンガージュマンとは【拘束】や【参加】を意味する言葉である。人間は未来の状況へと積極的に自らを投企していくべきである。社会に参加するために自らの自由を拘束する。サルトルは、それが自由を最も活かす方法であると考えた。
社会参加と言われると尻込みしてしまう人もいるだろう。アンガージュマンは時代背景的な要素にも強く影響を受けているから、社会参加をことさらに目指すことは今の時代には必要がないのかもしれない。
ただ、彼の提示する「自ら自由を拘束する」という方法論は必見に値する。
私たちはときに自由を持て余してしまう。自由が苦痛を生むことだってある。だったらその自由を拘束しよう。他者からの拘束は嫌なものだが、自分自身による自由の拘束は、そんなに悪いものではない。
人間に与えられた能力の特異点は、自身の絶対的な自由を自らの意志で拘束できることなのかもしれない。



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