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人を感動させるやうな作品を/忘れてもつくつてはならない。

 文学って何なんだろう? ぼくらは、どんな作品を文学って呼ぶんだろう? 文学に必要な条件って何?

 あれは高校一年のころだった。川端康成「伊豆の踊子」を現国の授業で読んでいる時、唐突にそう思った。50年くらい前の話だ。
 大学を出たばかりの若い教師に、「これは偏執狂的な恋愛の話ですよね。圧倒的な優位性に立って、安全なところから恋愛の気分だけを味わおうとしている。それのどこが「文学」なのですか?」みたいなことを、言った(実際には、もっとしどろもどろだったのだけれど、言いたかったのはこんなことだったと50年かけて整理した・笑)。彼がどんなふうに答えたかは覚えていないが、苦笑いとしか言いようのない彼の表情は、よく覚えている。
 おかげでぼくは高校の国語教師になり現在に至るが……、それはさておき。

 もとよりジャンルの線引きに興味はないし、それぞれが自分の文学観、ことば観を持っていたらいいと思う。

 ただ、近代文学史教育のなかで、誰かが作りあげた近代文学史の主流が気に入らないのだ。夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介・川端康成・三島由紀夫・大江健三郎……の東京大学出身者の流れのことだ。作品や作家自身には何の罪もない。誰かが権威主義を文学に持ち込んでいる。あるいは、学歴に安心して自らの「文学」判断をそこに委ねた多くの「わたし」たちがいる。文豪を求める卑しさがある。

 東京大学を優秀な成績で卒業した人たちだから、その作品はすばらしいものだという先入観がきっとどこかにある。理知的、理性的な文体で、「かしこ」が言葉を使って、言葉で世界を描けるものだと思い込み、描き尽くそうとし、絶望の末に自ら破綻するというパターン。作家自身もその思い込みに巻き込まれて自らの立ち位置を設定し、いらぬ悩みを背負わされる。

 不幸だよな、と思う。
 誰かが創造した権威主義的文学観が、多くの才能をゆがめ、食いものにする。

 ことばは、どんな秀でた才能より、もっとずっと強い。どんな優れた個人だろうとかなわない、かなうはずがない。そんなことばの持つ得体の知れない魔力に取り込まれてしまった人、ことばを道具として使うのではなく、ことばに道具として使われてしまった人の作品。ことばの恐るべき力を垣間見せてくれる作品。

 そんなことばを読みたい。

  人を感動させるやうな作品を
  忘れてもつくつてはならない。
  それは芸術化のすることではない。
  少なくとも、すぐれた芸術家の。

  すぐれた芸術家は、誰からも
  はなもひつかけられず、始めから
  反故にひとしいものを書いて、
  永恒に埋没されてゆく人である。
             (金子光晴『屁のやうな歌』より「偈」部分)

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