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20歳元不登校生。高校中退という道を選んだぼくはいろいろと書いてゆく。

※1心身共に疲れている方は読むのをご遠慮ください。そしてご自愛ください。

※強いトラウマがある方、痛々しい表現が苦手な方は読むのをご遠慮ください。そしてご自愛ください。


乱雑で日ごとで書いたので読みづらい点がありましたらご了承下さい。(がんばって加筆したはずなんだ、、)

不登校。よく耳にするようになって数年は経つ。それが耳にされる前の話、つまり十数年前の私から、高校のときの自分を振り返りつつ、今いろいろと思うことについてお話ししよう。

経歴や自分の情報についてなどはこちらに書いてありますので、ご一読してからこの記事を読むと読みやすいかもしれません。


保育園

さて、保育園に入ってはや数ヶ月、最初のうちは楽しかったが、先生が呼ぶ自分の名前の発音が悪くてそれについてイジられるようになった。
そこでぼくは、行きたくない病と称して行かない日を作っていってしまった。なにぶん子供というものは語彙力が少ないもんで、どうして行きたくないのかなんて説明が難しかったのだ。母はその時から働いていたので電話を入れてくれるのはいつも祖母だった。「はい、すみません。行きたくない病でして、、はい。」という会話が聞こえてくる。
泣いて行きたくないと自己主張をしていたぼくは、行かなくてよかったという安堵と、少しの不安が残っていた。
家でやることは、ゲームやらブロック遊びやら祖母や祖父との話し合いだったりテレビ、(ニュースとか知育系の物を多く見たり深夜アニメをケーブルテレビで眺めていた。)とムズカシイハナシというものを理解するのが容易かったのはここでの経験があるのだと思う。友達なんてものは高校に上がるまでそんなにいなかったから家に帰ると一人でずっと遊んでいたか知らない子たちと遊んでいた。

私には障害をもつ叔父がいる。この叔父に受けた性的な虐待がこの頃から始まった。物心もついていないので何をされているのかわからなかったが気持ち悪いのは感じたので嫌だと反抗していたが大人の力に勝てずされるがままだった。

小学校

低学年の頃まではよかった。楽しかったと言える。だけれど中学年に上がってから状況が変わった。

まず、叔父だ。作業所で口が立つので職員の不正に口を出し、金銭トラブルの犯人に
仕立て上げられた。警察も弁護士も介入し解決はしたものの作業所で犯人扱いをされ、くたびれて帰って俺(私)を犯す。犯すと言っても挿入はしないが素股みたいなことをされるのだ。

異常性に気づかずに自分からの場合もあって、祖母に相談しても男女がいればそういうふうになるんだよお前だって悪いとうやむやにされる。そうしてぼくは、見た目を男らしくした。

つぎにいじめだ。菌扱いをされたりキモいと言われたり。見た目が男っぽいのもあってクラスで浮くようになった。行って休んで行って休んでを、中学まで繰り返す。

中学校

ここだ。ここが転機だった。まず、叔父を本気で拒否した。何かのスイッチが入ったように。風呂上がりのおじに頭を触れられた瞬間に気持ち悪い!!いやだ!!と言った。そこから喋りもしなくなった。部屋に入ることも。触れることもなく。本気で物事を伝えるというのが大変だった。長かった。

つぎ。中学2年の5月。クラス行事で浅草に行くことになった。休みがちでいたぼくはとりあえずで行こうとしたが作ったばかりの班、全く絡みのない人に「○○くるんだって!」と何回も言われた。誰だこの人と思った。だって喋ったことないもの。でもその人はそれを友達を作る口実にし始めた。
いろんなとこに「○○来るんだって!!最悪なんだけど!!」と周りに吹聴して回った。聞く人によってはだから??という反応で面白くなさそうにまた別の人へと吹聴しにいく。
それをされてる時はとんっっでもなく辛かった。
でも何もできていない自分が悪いから、給食の時間になってとりあえず何かできることはないか聞いてみたんだ。
しかしそれは伝言ゲームみたいになっていって最後の返答は(女性が主犯)「教える価値ないよこんな奴にだからみんな(班の方々)教えなくていいよハッ」だった。
勢いがついた男子が「こいつの仕事何?」って聞いて別の男子が「こいつの仕事ぉ?生きてることだよwww」と笑いながら言ってきた。
給食をそっぽむきながら半ば泣きつつそれを隠しつつ食べた。そこから2日間休んで、月曜日に行くと「うわw○○来たよwww」と班の人に笑われてああ、来ちゃダメだったかぁと思い家に帰って家族に相談した。というより、嘆いた。
「こんなことを言われるような娘に育ってごめんなさい」と。母は弱めにほおを叩いた。けどそれは自分に対して怒ったんじゃなく「お前が悪いんじゃねえだろうが!!なんで謝るんだよ!!」という怒りだった。そこから夏休みに入るまで3ヶ月休んだ。
(学校の先生には相談したが公にすると何かに響くのだろう、あまりにも対応されなくて、その3ヶ月間の間に母が入学式の時に聞いていてくれた適応指導教室への提案をしてくれてそこへと通うことになったのだ。)

3年のクラス替え

担任についての面談があった時違う先生がいいと言ったのだが、事情を知らない母は「いや、あの、えっとせ、先生がいいんじゃハハッ」と言い出し保護者の意見に則った結果同じ先生になってしまった。必要なものだけもらおうといってみたその日は絶望したしノリだした男子が一人いて怖くてその日だけ学校に登校してそのあとは適応指導教室で過ごした。

家の中はぐちゃぐちゃ。じいちゃんがいない日に話し合いをする。その日は喋り声がうるさく「少し静かにしてくれないか」と頼んだら叔父の地雷を踏んだのだろう「うるせえこのガキ!!」とキレてきた。反射的にぼくは「だからそっちの方がウルセェつってんだろうが、!」と返した。そしたら大きめの皿をぼくに投げつけようとしておばあちゃんが止めに入るという地獄みたいな状況。そのあとは自分の膝を叩きながら「殺してください」を連呼していた。次の日話すとお前が先に喧嘩ふっかけたんだから悪くないとまた有耶無耶になって絶望した。

高校生1.2年

適応指導教室からチャレンジスクール、(定時制、単位制、四年制)の高校へ通うようになったぼく。(不登校の方などが0からのスタートを切れる学校。)

こんな感じ。

友達ができたきっかけが少々特殊だった。自分に話しかけてくれるようになったひとりの友人が粘着ストーカーに絡まれそれから守る人たちが増えてその人たちが友達になって言った形だ。夜間部に通っていたので生活習慣の乱れはあったかもしれない。けれど友達や先生の支えなどがあってぎりぎりの精神状態でも通えた。

高3の夏休み明けそして通信制へ。

家の状態はまずくなっていく一方だった。まずコロナ禍で家族の収入が減り家族仲が悪くなっていった。そして叔父が何かの拍子に祖父と言い争い、啖呵を切って出て行った。(当時付き合っていた彼女の伯父の家に行くというよくわからない状況ここら辺はかかわりを持ちたくなかったのであまり知らない。というか知りたくもない。)
(バイトもしなければと考えているけどこんな自分が働いたら迷惑かけるし男の人が怖いままなので現状難しい。)いろいろな状況が重なりすぎて耐えられなくなって高3の夏休み明け、ギリギリ耐えきっていた水がコップから少しずつあふれ出した。きつかった。学校に通えなくなって心配した母がそのまま学校へと相談。→YSW(ユースソーシャルワーカー)に相談し当時の担任の知り合いがいるという通信制に転学。が、その知り合いの新しい担任はすぐに別の学校へ赴任するという何もうまくいかない状況へと変わる。

次の担任となった先生にはよくお世話になったと思う。(恩をあだで返してしまう結果になってしまったかもだけど…)自称真面目ちゃんな自分は途中までは頑張れていた。レポートも期日前には提出して出席もきちんとできていた。

そして学校の臨床心理士の先生へとつなげてくれたのもこの担任のおかげだ。臨床心理士の方には自分の状況を包み隠さず伝えることができた。(話が重すぎて今まで誰にも相談できなかった。)フレンドリーに真摯に対応していただいた。

この臨床心理士の方はすごいフッ軽なファンキーおばあちゃんだった。心配したファンキーばあちゃんは精神科につないでくださった。めちゃくちゃありがたく、精神科の通院は今現在も続けている。(精神科の先生に今までの経緯などをまとめていたノートを渡すと普通では経験しないことを異常なほど経験しすぎているので休んでくださいと念押しされた)

高校中退への経緯そして精神科へ。


ただ、家にいることが増えた結果見たくもない家の内情が多く見えて疲弊して。最終的に自分に向けてではない(ここ大事)全体に向けた意味の分からないセクハラ授業を受けてもう無理だと思った。また通うこともできにくくなり、そしたら就労移行支援事業所の方が学校に広報に来られて担任が相談したのだろう。その事業所ではいろんな体験をしたけど結局その就労移行のところには行かず(そこの事業所はカフェ業務が多いので持病の皮膚炎なども考慮し、PC作業に特化したところがいいといわれたため)別の機会に広報に来られたところの"生活訓練"に今通っている。

生活訓練に通うには電車賃もかかるし家が大変だしと考えた自分は高校を中退した。結果的には中卒、精神障害者という肩書だけ残ってしまったが今の状況のほうが少しだけマシだと思ってしまうのはどうなのだろう。不安な点が多いけれど頑張るしかないのだ。

まとめ

さて、ここまでお読みいただきありがとうございました。だいぶ内容が重く読みづらい点も多かったと思います。申し訳ございません。しかし、「自分のこと」に吐露できなかった分はいくつか小出しで記事にしてまとめて翌る日記事として発行できればなと思います。生きててつらい。けどえらい。と思わせてくれる友達、家族に感謝しながら療養し、社会復帰を目指していきたいです。


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