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「空白を満たしなさい」を読んだ

この作品を読むきっかけになったのは、サディのnoteを読んだこと。

私自身、数年前に子どもに「死にたい」と言われた事がある。
一番最初に言われたときは、こんな世の中もさほど知らない幼い子がそんな言葉を言うはずがないと心底混乱した。

それを言われたときの親の心、子どもがそう言ってしまうまでのこと。
それを誰かに伝えたいと思って描いたのがこの作品で、これはあくまでも読み切りとして描くための超省略形。

この出来事があって、私は自分と娘の心とものすごく向き合った。
これを描きたいと思いながらも、出だしをどこにするかをいつまでも決められずにいる。

サディもお子さんに「死にたい」って言われる体験したんだ…とおもったら親として一方通行で少しだけ心の距離が近くなった。

「空白を満たしなさい」あらすじ


この「空白を満たしなさい」という物語は、死んだ人が数年後に何故か突然蘇る世界という舞台設定から始まる。

主人公は、自分が勤めていた会社の屋上から落ちて死んだ男、土屋徹生。
死んでから3年後、彼は突然生き返った。

自分の人生は充実していた。自分で死を選ぶはずがない。誰かに追われて落ちたので殺人のはず。徹生はそう思う。

…でも、周りからは自殺と思われていた。

自殺した後の3年間で、『自殺した人』の周りにいる人達の人生は大きく歪んでいた。

本当に自分は自殺だったのか?

その真相に近づいて行く中で、他にいる、死んだ後に蘇った人たちとの出会い。

徹生は死の真相を追う中で、自分の中にいる『分人』についてを考えていくことになり、その意味を知っていくことになり…
知っていく事で、もとからあった歪み、自分の死によって起こった歪みを修正していく…

ざっくりとしたあらすじ

最初は何気なく読んでいたのだけど、読み進めていくにつれて止まらなくなった。

子どもが遊んで欲しいとまとわりついてくるのを「今おかあさんは本を読んでいるので遊べません」と払い除けるほどに、その世界に入り込んだ。

そして、読み終えた後。

ただただ、私は、子どもたちを抱きしめた。

「遊ぼうって言ってくれたの無視してごめんよ」と言ったら

「いいよ、ゆるしましょう」と4歳が小生意気な口調で答えた。

それは、心底大切で幸せなことだ。


子どもに死にたいと言われること


人生のうちに何度か「もう死にたい」と自分以外の他者が言葉にする機会を耳にすることはあった。
そう言葉を発した人に、本当に死んだ人はいない。

ただ、自殺した人は自分の人生で関わった中で数人いる。
けど、大抵そういう人ほど普段はハツラツとして、楽しそうにしていた。
死んだ報せを聞いて「え、何で?」と一瞬現実が理解できないほど、普段私と話しているとき死の影なんて見えない人だった。

この作中で出てくる徹生も、そういう男だったと、描かれている。
だが徹生は死んだ。本当に自殺なのか、他殺なのかは興味が沸いたら読んで頂けたらと思う。

子どもが「死にたい」という言葉を発することについて。

子どもが言うこの言葉は別格だ。
大人が言う「死にたい」よりずっと魂からの言葉に感じられた。

その言葉を発する時期は1年ぐらい続いた。
気を抜いたらこの子は本当に自分で生きることを放棄すると思った。
それぐらいの凄みがあった。親として心底恐ろしい期間だった。

一番初めに私がその言葉を言われたときは、心底動転した。
だって彼女は世界をたった5年しか知らないのだ。

まだ、無邪気に生きることを楽しめるであろう年齢の子どもが、泣きながらその言葉を発して自分の頭を殴り続けたとき、私はその現実をしばらく理解できずに固まった。

「何でそんなことを言うの」と最初の頃私は「死にたい」と言った娘の”分人”を否定した。
You Tubeとかアニメとかで自分の中に仕入れた、自己陶酔するための言葉を言って親の気をひこうとしているんじゃないかと思った時期もあった。

毎日それを受け止める余裕は自分になかった。

今でもあの日の顔が忘れられないほどの、とんでもない一言を言ってしまったこともあった。

多分、そのときの娘は本当に世界から”消えたい”と思っていたのに。



分人という考え方


”分人”とは、作中では自分の中にいるいろんな思考というかキャラクターのことを示す。

昔から思う事があった。
「友達といる自分」「彼氏といる自分」「会社にいるときの自分」それは、全て自分であって自分ではないみたいな不思議な感覚。

別に演じようとなんて思ってない。
ただごく自然に、その人格を使い分けている。
そして自分でも、自分なのに。好きな人格と嫌いな人格があるのだ。

「この人といる時間は楽しいなぁ」と思う時、私は「相手と自分の相性がいいから」だと思っていた。
「この人といる時間はしんどいなぁ」と思うときは「相手が自分と相性が悪い」と思っていた。

でもこの分人の思想からいくと「この分人でいるときの自分が好き」であって「この分人でいる自分は嫌い」ということになるんだと思う。

軸は相手ではなく、自分にあるということだ。

この分人という発想、私の人生の(何かこう、言語化出来ないけどこういうのってあるよね)ぐらいの感覚でふわふわ漂っていた疑問みたいなパズルのピースがカチカチとハマっていくぐらい、しっくり来た。

ちなみに私も若い頃本気で死にたくなったことがある。

運転しているとき。
切り立った脇道がある道路、大きな川の上を渡る橋の上。
大きな対向車が向かってくる時。

エイヤとハンドルをそっちに切ったら死ねるんじゃないか。
一瞬大きく車を蛇行させるのだが、何度も何度も思いとどまった。

ああ、あの時の私はひとつの分人に思考を支配されていたんだ。
私が消したかった分人は、あの分人だったんだ。

今もその分人は確かに自分の中にいるけれど、家族と過ごす時の健やかな思想の分人や、その後出会った大切な友人との分人が増えたおかげでだいぶ存在が薄らいでいるようにも思う。

娘は5年しか生きていなかったからこそ、彼女の中には多分本当にわずかしか”分人”がいなかったのだ。
そしてその存在は恐ろしく大きかったのだ、と思う。

8歳になった娘は「死にたいって言った時期もあったね」と笑って昔を語る。今はもう微塵もその思いはないのだという。

死にたいと言っていた時期の娘は集団の中で「出来ないこと」が多かった。
家で個別になれば娘は優秀だった。
実際、娘の思考能力はたまにぎょっとするほど鋭くて。
天才ではと思うこともある(親バカです)

…でも当時の娘は、集団に入ると、出来ないことの方が多かった。

娘は「集団の中で出来ない自分」を消したかったのだと思う。
やりたいと願うのにやれないふがいなさ。
みんながやれているのに自分だけが出来ない劣等感。

最後に娘の心を決壊させたのが「妹を泣かせる」という「良い姉になれない自分」という出来事だった。

家庭で過ごす自分すら、許せなくなってしまった。
どこにいる自分も好きになれなくなってしまった。

今になっても、その時の娘の思いを考えると胸がきゅうっとなる。

今娘がそれを「過去のもの」として見られるようになったのは、その後色んな集団の中で沢山の配慮をしてもらった基礎がある。

「集団の中にいる自分」を好きになれるように、先生たちは沢山の成功体験を積ませてくれた。
成功ばかりでは成長出来ないからと、上手に失敗もさせてくれた。

小学校1、2年のときは何度も登校拒否をしたが、担任の先生は決して登校圧力をかけてくることもなかった。
たまに2時間だけ学校に行けただけで、先生たちは大喜びして娘を迎えてくれた。図工で何か作るたびにいいところを見つけて褒めてくれた。

学校に行けないときはデイサービスの先生がただただ、娘を楽しくさせてくれた。

家では「別に”いいお姉ちゃん”を演じなくていい」ことをただ丁寧に伝えた。子どもの前で夫婦喧嘩もした。
「これは喧嘩だけどとても大切な話し合いだから大丈夫!こうやって話すことも大切だし、最後には絶対仲直りする!」と不安そうな娘に伝えた。

”喧嘩”はしてはいけないこと”ではないのだ。

娘は今や全力で妹と喧嘩している。その自分を否定することはない。
喧嘩して大癇癪を起こした後、クールダウンした娘は『私はどうして自分がやりたくないと思うのに大きな声を出して妹を怒鳴ってしまうのかなぁ』と小さくつぶやく。

そして妹に『ごめんね、おねえちゃん、気持ちの切り替えが上手に出来なかった』と自分自身の混乱を伝えて謝る。それにすっかり慣れた妹も『大丈夫だよ、じゃあまた遊ぼうか』と姉の手を引く(どっちが姉なんだかわからん)

今、娘は「学校に行くのが楽しい」と言う。
「死にたかった頃の気持ちはもう思い出せない」と言う。

何度も消えたがった私の中にいた分人が、他の分人が生まれてきた事でそうではなくなったように、娘も「人の中にいる自分」の分人を認められるようになったのだ。

作中ではそれを「分人同士で見守る」状態なんだと言う。

ああ、凄いなぁ、良かったなぁ。成長したなぁ。

人と出会い、誰と過ごすかということ


「誰と一緒にいるときの分人」が自分にとって心地よいか。
どの分人を自分の中の比率として大きく取るのが良いか。
それを自覚することで人生の生きやすさはずいぶんと変わるのだと思う。

私は夫と出会ってから、人生が一変した。
それはきっと夫といる分人が、自分にとって最高に心地よかったのだ。

死にたくなったときに一緒に居た人たちとは、もう遠く離れた土地にいるので多分会うことはないと思う。

過去の私は、人との繋がりに執着する人だった。
一度出来た繋がりを断ち切る事がとても嫌で、せっかく出来た繋がりだから、どんなに嫌でもそれは残して置きたいと思った。

それはきっと、嫌いな分人もすべて同じぐらいの比率で抱え込む事だったんだと思う。

でも、その執着を捨てた時期がある。
それが会社をやめたときだ。

人生は終着点に向かう列車である


作中で、人生を列車にたとえる一文があった。
終着駅は死ということになる。

途中下車して、別な列車に乗り換えることもできる。
早く終着点につくのは、早く死ぬ人。
乗り換えを上手にしていくことで、終点につく時期は変わる。

ただ、あといくつの駅、今乗っている列車が止まるかを大体本人は理解していない。
鈍行なのか、各駅停車なのか、快速特急なのかを知らずに乗っている。

次の駅で降りればいいと決断を先送りにしたら、それはもう終点まで止まらない特急だった…それが徹生の人生だった。

降りた駅が終着駅だと気づいて呆然とし「あの時下車していたら」と後から思っても、それはもう取り返せない。

***

私は次女が生まれてしばらくして、自分がすごくマズイ状態になっていることに気付いた。
それこそ以前陥った、ハンドルを死に向かって切りたくなるようなところだ。

前の私は、それでもその時乗っていた列車から降りなかった。
その電車に乗るのが正しいのだと自分で自分に言い聞かせた。

窓から見える景色は美しくなく、ただモノクロだった。

そんな列車に揺られ続けて身体と心をすっかり壊した。

メールのやり取りや電話したときの違和感から実家から母が突然やってきた。山ほど美味しいご飯を作って、当時勤めていた会社をやめさせて、私を実家に連れ戻した。

自分の意思で列車からは降りなかった。
あのときは、母が無理やり私を列車から引きずり下ろしたのだ。

会社から「親が出てくるなんて」と嘲笑されても母は凛としていた。

私は母との関係はあまりすごく良いものだと思っていなかった。
愛された実感なんて感じたことはなかった。
でもあのときのことを思うと、私自身に実感は無くとも、不器用なりに愛されていたのだと思う。

母というのは、すごい生き物だなと思う。
自分も今、母親であるが、自分の娘が同じような状態になったときに同じように振る舞えるだろうか。


会社を辞めること


母に引きずり下ろされたあの日の私に自分がすごく近づいていることに気付いた私は夫に相談をした。

”この列車、降りたほうがいいかな?”

夫は「降りた方がいい」と私の背中を押した。

それが、会社を辞めることだった。

そして違う列車に乗り換えてからの人生で見える景色が、全然違うもので日々感動している。
あのとき列車を乗り換えていなかったら、もしかしたら私の人生は終着点についていたかもしれない。

「ポンコツな自分を長年雇ってくれた会社」という大きなつながりを自ら切る決断をしたあの日から、私は人間関係も上手に扱えるようになった。

自分がしんどくなる分人が生まれてくる人とは、無理に付き合わない選択が出来るようになった。
自分が楽しくなれる、どんどん自分が好きになれるような分人と過ごせる時間が多くなるように選んで生きるようになった。

もちろんすべてがそうではないし、何にでもそれをやってしまうわけにもいかない。嫌いな分人もそりゃあ何人かはいるけど、上手に折り合いをつけてお互いで”見守る”ことが出来ている…と、思う。

しゃにむに全てを抱え込むよりずっと、今の自分は前の自分より生きやすい。

今回、この「空白を満たしなさい」は私の中にあった漠然とした空白を満たしてくれたように思う。

良い作品が読めた。




佐伯、映像化されるんだってよ


この作品、今度ドラマ化されるのだそうだ。

これは…見たい。。。ような…見たくない…ような…となっている…
頭の中で自分の好きな情景を好きなように描けるのが小説の一番良いところと思う。

映像化されることでそれが思い通り描かれることもあるし、逆に壊れることも多々ある。

何より佐伯が阿部サダヲさんって!!
これは違うだろう!!!!違うだろう!!!(個人的主観です)

いや、あの佐伯の独特の気持ち悪さみたいな”キャラクター”は演じられる俳優さんではあると思う。でもキャラクター的な空気感としては佐藤二朗さんのビジュアルがしっくり来る。読んでいるとき私の頭にぼんやり浮かんでいたのは佐藤二朗さんだった。

ただ、佐藤二朗さんが役者として演じるキャラクターで佐伯のあの気持ち悪さはちょっと出せないような気もする。阿部サダヲさんは、あのまとわりつくような独特の気持ち悪さを演じる事ができる方のような気がする。

でも見た目がシャープすぎるじゃん!!
見た目も含めての佐伯じゃん!
なんかこう、じっとりした、空気が汗ばむような気持ち悪い暑苦しさがあっての佐伯じゃん!?(そろそろ佐藤二朗さんに失礼だぞ)

この作品、主役は徹生という男なのだが、私の中での主役は佐伯である。
あの人の存在感が物語の深みをものすごく増している。

言っていることは全て癇に障り、とことん不快でしかない。でも、でも、言っている事そのものにどこか納得させられるような存在感もある。
見たくないけど目をそらせない存在、それが佐伯。

ううう…阿部サダヲさんじゃ…ねぇんだよおおおおおお

でも、見たら物凄いハマり役って事もあるのかな…。

そして、佐伯が主役だと思っている私としては、物語で最後に出てくる佐伯の描写には疑問が残るしちょっと消化不良である。ドラマでは少しはその辺り消化してくれるかな。どうかな。

あとはちょっと蛇足でもあるけど、書きたいことだったのでここだけ有料にしておく。

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