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娘がいじめをしていました

衝撃的な漫画だった。

いじめられっ子側からの視点が描かれた漫画作品というのはたくさんあるが、いじめっ子側の、親の視点が描かれた漫画というのはあまりないのではないだろうか。

いじめ。

私は、いじめられた事も、いじめた事もある。

自分は、いじめに加担したその時、弱っちかったんだ。

そして、弱っちい人間が集まった結果、いじめっていうのは起こるんだと思う。

いじめというのは、1対多数だからいじめになりうる。

多数の大抵は相手をいじめたいという明確な意思もなく、みんながやってるから、とか、仲間はずれにされたくないみたいな意識でいじめに加担している。

私がいじめられたときは、自分の私物がカッターで刻まれるとか、差出人不明の中傷の手紙が届くとか、体育の授業の後で更衣室から制服が無くなった後、傷だらけになった名札だけが出てくるとか…なんというか、相手の姿が見えないものだった。

晒し者にされるような、集団の中で孤独になるような、そういう空気はなかった。実際、いじめられているときも普通に仲良くしてくれている友人は数人いて、相手はほぼ男子だったので女子の輪に入れない事をしんどく感じなかった(まぁ、それこそがいじめの原因だったとも思うのだが)

だから明らかな1対多数、ではなかった。
気配的には数人感じたけれど、下手したら相手はひとりだったかもしれない。

だからなのか、私は、当時いじめられていたはずだが、さほどしんどさを感じていなかった。

制服が無くなってもジャージでヘラヘラしていた。
皆勤賞も取った。

(だだ、制服が無くなるという明確な事象が起こっているのに一切動かなかった担任教師には未だに恨みを抱いている)

あれは別にいじめではなかったのかもしれない。なんて話を夫にしたら「いや、制服無くなるのはさすがにいじめでしょ」と言われたけれども。
いじめだったのか。未だにようわからん。

仲良かった友人が別なルートでいじめにはあっていた。
体育館にひとり呼び出され、泣きながら戻ってきたり、トイレで嫌がらせされたりしていた。
首謀者は部活の同級生で、私の知らない人だった。

私は、首謀者に反逆するとかより、ただ変わらずに仲良くしていた。
私がやったことはそれで良かったと思っている。
味方がいる、ということはきっと大きい。

***

高校に入っていじめ側に回った。
その首謀者は明確だった。

いじめる相手は、数ヶ月前まで一緒にお弁当を食べるほど仲が良かった相手だった。7人ぐらいのグループで、AがBの機嫌を損ねて、Bが、Aを避けようといい出した。

Aをあまり好いていなかったもうひとりのCがそれに賛同した。
BとCに押されるかたちで、私もAを避けることになった。

正直、すごくしんどかった。
私は別にAを嫌いでもなかったからだ。
でも、そこでBとCの機嫌を損ねたら、今度は私が避けられる側になるのかもしれないと思った。

その場しのぎのつもりで、Bの怒りに付き合ったつもりだった。
でも、それは、卒業まで続いてしまった。

BとCがAを馬鹿にする会話を振ってきたとき、適当に合わせて悪口に乗っかった。乗っかると二人はとても喜んだが自分の心はその言葉を吐く度に重たくなった。

あのとき、私がもっと強かったら「こんなバカバカしいことはやめよう」と言えただろう。Aの方に付いて、1対多数でない状態に出来たはずだ。
でも、私はそれが出来なかった。

クラス全体を巻き込んだわけではなく、避ける以外の大きな行動も特になかった。小さな女子グループの小さな派閥争いみたいなもので、いじめというほどのものではなかったかもしれない。
我々に避けられ、陰口を言われていたAにもちゃんと別な仲が良い友人はいたし、毎日学校にも来ていた。

ただ、私は、やっぱり、加害側にいた自覚がある。未だに後悔する。
向こうも「何もされていない」なんて優しいことを思っているはずもない。

私が「避けよう」と言われたときにそれを突っぱねられていたら、あれはただの個人の喧嘩で終わっていたのではないだろうか。

大学のとき、同じような状況が起こった。
私はそのとき、どちらの味方もしなかった。どちらのことも好きだったからこそ、どちらの味方もしなかった。どちらかの味方になれば、どちらかの敵になるからだ。

仲間内でお互いに味方をつけてギスギスしていた。
勢力的には五分五分だった。

いつしか二人は仲直りしたが、今度は二人で私を避けるようになった。
辛かったときに味方をしなかったからだと思う。その二人にとって私が共通の敵になったということだろう。
「あの人って冷たいよね」って意見が一致して仲直りしたのかもしれない。

人と人が仲良くするっていうことは、本当にめんどうくさいことだなぁと思った。

でも、いじめられていたときよりも、いじめていたときよりも、自分の心はスッキリしているし、何の後悔も恨みもない。

どちらの味方にもどちらの敵にもならず、自分の意思を貫く人ばかりになれば、争いは1対多数にならない。

みんながそういう行動を取れるようになったら、いじめって無くなるんじゃないだろうか。

誰もが、いじめられっ子のことを憎いとか嫌だとか思っている訳では無いと思う。

誰かが「いじめよう」と言い出したから。

逆らえないから。

なんとなく。

多数側にいれば安心だから。

そういう、流される勢が流されなくなれば、いじめは無くなるんではないだろうか。

作中で、いじめっ子側の親をクラスメイトの親が責め立てる場面がある。
いじめられっ子が可哀想!我が子を守るため!との主張一見正しいように見えるけど、そのために誰かをみんなで責め立てることが本当に正義なのか、考えさせられる。ネット私刑に近いものを感じる。

そして、いじめっ子を責めるとき、その人々は、自分の子がそのいじめに加担していた可能性を一切考えていないという事実にゾッとする。
その心理を描き、正義をひっくり返したしろやぎさんの漫画力がすごい。

SNSでの炎上なども絡めているのでさすがにちょっと現実離れしているかもしれない。でも、現代なら起こり得ないこともない範疇である。負の感情の連鎖。”正義”側にいることの快楽。

セミフィクションと書かれているけど、本当に起こったのはどこからどこまでなのか。
それがわからなくなるほどにリアルでゾッとする。

誰もが自分の意思に反して、被害者にも加害者にもなりうる世界。
誰も幸せになれず、全員が不幸になる世界。

***

本当は誰だって、いじめたくないし、いじめられたくないはずだ。

いじめが無くならないのは、流されるだけの人々が多勢を作り出すからだ。

以前、学校で娘が友人とトラブルを起こした。
下手したらいじめに発展しかねないような内容だったけど、それが発展せずに個人の喧嘩でおさまったのは、支援級の人数が絶対的に少ないからというのはあるかもしれない。

いじめをする側も、強者でいられるからいじめをするのであって、常に一対一で喧嘩するだけであればそんな習慣的に、相手を追い詰めるほどのことはしないのではないかと思う。
集団で味方がいない状態で誰かを一方的に攻撃しつづけるのは自分の立場がどんどん悪くなるだけだからだ。

相手に味方がついているなら殊更、そこまで必死で追いかけ回す事はないと思う。

だから、いじめを無くすために、ただひとつ、自分の意思を明確にもって出来ることがあるとすれば「ひとりひとりがいじめに加担しない」ということだ。

もしもいじめられている方の子と仲が良かったとしたら、今まで通り何事もなく、仲良くするということだ。
好きな友人の味方でいるということだ。

多勢を作らず、各々の個を尊重しあえる世界になれば、いじめなんて無くなると思う。

臆病な人間が束になった結果、いじめが起こるのだ。
いじめっ子をなくすのではなく、いじめっ子に味方する人をなくすのだ。

相手はどうなってもいいから自分の安全地帯だけは確保したい、という思いから、いじめが起こるのだ。

一見大きな力に逆らう事は難しい。

でも、みんなで逆らえるなら、今度はこっちが多勢側になれるかもしれない。そのとき相手を攻撃する必要はない。
正しいと信じた方の味方でだけいればいい。

この作品を読んだことで「あいつ、気に入らないからいじめちゃおう」に逆らう正義を選べる人が増えることを切に願う。


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水谷アス
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