身体性との闘ひ
カトリックの合唱団は少年だった。
少女ですら歌へず、ましてや女性は徹底的に排除されたのは、どんなに高く透明なソプラノで歌はうと、その声が出て来る肉体が消去できないからだ。
少年なら、肉欲の対象とならないから、ゐてもゐないのと同じ。透明になって、そのさらに透明感のある声だけが残る。
宗教的修行、霊的探求、さういふものは、あらゆる手段で身体に苦痛と欠乏を与へ、食欲睡眠欲性欲などといった欲求として形態を顕す身体をひたすらに乗り越え、瞑想といふ精神だけの存在を夢想する時間に没頭することだった。
私たちはなぜかくも身体性と戦ふのか?
身体が死をもたらすからだ。
私たちが老いるのも、病気になるのも、死ぬのも、すべては身体のせいだ。
日本に限らず西洋にもある「穢れ」といふ観念も、要するに微生物に覆はれた身体の異臭や腐臭や腐敗、そして発症に対する恐怖と不安だった。
身体を敵として、身体を乗り越えようとする性向は、科学の時代になっても下火にならない。むしろ、身体を機械化して永遠の若さと健康と命を獲得しようといふ試みも始まってゐる。
身体性から離れた言葉は虚しい。
だから、日本の武士は切腹を言質に置いて発言し行動しなければならなかった。
現在、SNSに氾濫する言葉には身体性がまるでなく、停電と共に一切は無に帰す。
一神教は、どれも、人間が自分の身体性を敵にして、身体を乗り越えようとする奇妙な衝動から生まれてゐる。
日本の神道は自然崇拝とか精霊信仰とか言はれるが、さういふ難しい話ではなく、要するに人は身体として生まれ、身体として死ぬといふことをそのまま受けれてゐた古代人の暮らし方に過ぎない。
そんな暮らしができたのは、日本列島の置かれた気候や植生などのおかげだ。
観念が先にあって作り出される宗教とは関係が無い。