言論の自由
中野剛志氏によると、トクビル(アレクシル・ド・トクビル)という十九世紀の政治思想家が次のようなことを言っていたそうだ。
かつて王制などにおいて、独裁者は、自分と意見の違う者たちを投獄したり、処刑したりしていた。
民主主義の国では、多数派が独裁者になるのだが、この独裁者は、自分と意見の違う者たち、つまり、少数派を捕まえたりしないし、ましてや処刑もしない。
どうするのか?
無視する。
そうすると、少数者たちはだんだん疲れて黙ってしまう。
これを「沈黙の螺旋」というのだそうだ。
さて、日本も民主主義だから、多数派による独裁の国である。
そして、日本では少数派の弾圧の方法は、無視ではない。
もっと進んでいる。
マスコミからの批判、SNS炎上などによる言論攻撃だ。
そして、小数意見を持つ者から発言の機会を奪ってしまう。
言論攻撃ではロジックは使わない。人としてそんなことは言ってはならないと批判する。
最近なら、安倍晋三元首相が暗殺されてよかったと発言した人が批判されている。
「人の命が失われたのに」というのが批判の理由だ。
あの発言の真意、ロジックは無視である。
もちろん、安倍晋三元首相が暗殺されてよかったと思った島田氏は、もし、大江健三郎氏が暗殺されたら、「テロはどんな理由があっても許されない」と泣き叫んだだろうと思う。島田氏の発言が叩かれる理由の一端には、サヨクの二重基準が透けて見えるからだと思う。
けれども、ヒューマニズムに関する偽善という点ではミギもヒダリもお仲間である。
本心を語るのはアホバカマヌケのネトウヨくらいだ(笑)。
島田氏は、まったくつまらない釈明をしている。
かりにも作家ならもっと自分に正直になってほしい。
小説を書くような人間は、社会的には人間のクズであり、今風に言えば、反社なのだ。
もっとならずものらしく、本音を語れ。
「あの日はひさびさに酒がうまかった」とか言ってほしいわ。
それがほんまのことやんか。
作家なんやろ、あんた。
まわりのサヨクも冷たいなあー。
応援したらんかい。あほんだらのへたれどもが。
せっかく勇気出して島田はんが言うてくれたんやで。
まさかひとり取り残されるとは思わなんだはずや。
ふりかえったら自分独り、今、きっと心の中で泣いてはるで。
あれ?なんかネイティヴタングになってしまいました。
何が言いたいかというと、ああいう島田氏とかいう人に代表されるアベガーさんたちは、誰が殺されるかで意見が変わる。
そんなんでいいのか?
バカボンのパパに訊くと、「それでいいのだ」ということだ。
それがわたしたちの意見というものである。
意見と言うのは、西部邁氏ふうに言うと「opinion」である。opなのである。或る視点から見えたモノゴトというのが語源で、つまりは、偏った見解という意味だ。
複数の視点から見えたモノゴトを並べて、できるだけ実像に近づこうというのが言論である。
だから、言論は自由でなければならないのである。
それなのに、日本では、特定の視点は封じられてしまう。
人命の軽視とか、
弱者の批判とか。
そういった視点からものを言うと、目玉をえぐられる。
そんなことで言論の自由とか言ってもらっては困るのだが、民主主義独裁者にとっては都合がいい。
人の心を傷つけるようなことを言ってはならないという制限を設けた言論の自由、そういう言論の自由が全体主義に反対する少数者を逮捕し処刑する道具になるのだ。
この十年くらいでも、いわゆる「弱者を傷つけるこころない言葉」を発して、言論界から追放された人たちが何人もいる。
その発言の内容は吟味されない。
べつにわたしはそれら少数意見が正しいと言っているわけではない。
意見として出したこと自体が批判されると、言論の自由は少数派弾圧の道具でしかなくなると言っているまでだ。
言論リンチをした人たち、つまりわたしたち善良な市民は、批判のコメントを書き込んで、しごくいいことをしたと思っている。
あんな人でなしにものをいう権利はないと思っている。
言論の自由はなによりも大切だが、だからと言って、人の心を傷つけていいはずがないと思ってまったく疑わない。
自分が正しいことをしていると信じて疑わなくなった人が多数者になったとき、民主主義による独裁は確立する。
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