孤立と分断の時代

 
 わたしの↑の記事に、福祉関係の人がスキをつけてくれた。
 なんでこんな人がわたしの記事にスキをつけるのかと、その人のnoteにいってみたら、つぎのやうな記事があった。

 
 これから書くことは、引用先のnoteの著者への因縁とか反論とかいったものではない。考へ方や生き方は、それぞれであり、わたしはそれらを尊重したい。
 けれども、それぞれがあんまり真逆の考へ方だから、反論といふうに読めないことはないと思ふ。確かにわたしも「それは違ふな」と思って、キーボードに向かった。
 それにしても、わたしは、異なる考へ方に触れて出て来た自分の考へを文字にしたいだけだ。

 と言ひ訳をしておいて、本題に入ります。
 なんか、なんとなく急に「です・ます」になったので、このモードでいきます。
 わたしが痛く反応したのは、次の一節。(本からの引用ださうです)

2020年は、中高生の自殺者が過去最高になっていました。僕はこの悲しすぎる「社会の結果」と「高齢者の孤立」が無関係だと思っていません。
「高齢者が孤立している社会、幸せじゃない社会では、若者は未来に希望なんて抱けない」
「一生懸命生きた人の、大切なしめくくしりの期間が孤立して終わる。そんな社会は間違っている」

 最近の世相をなげく人たちには、こんな孤立と分断の社会になったのは、新自由主義のせいだとする人が多いやうな気がします。
 ワルモノは新自由主義とかネオコンとかなんですね。
 この見方だと、ディープステートといふ方向にも進めます。
 確かに、製薬会社は国家の枠を離れて繋がって一種のDS化してますね。

 ワルモノを叩く人は、1960年代から90くらゐまでの成長経済を肯定しゐる。参政党のアドバイザーとやらの武田邦彦氏のやうに、「90年までの・あの素晴らしい時代」に戻そうと言ふ人たちもゐる。
 わたしとしては、日本の精神が腐っていったのは、あの「素晴らしい高度経済成長期」だと思ってゐます。
 孤立と分断はその頃に始まった。
 でも、毎年、給料が上がってゐるうちは、誰もそんなことは気にならなかったのです。
 
 今、日本人の精神が堕落してきたとか言ってる人たちは、ミギの参政党の支持者にしろヒダリのれいわ新選組の支持者にしろ、「収入が少なすぎる」と嘆いてゐる。
 それだけを聞いてゐると、なんだかこの人たちは金の亡者かなと思ふが、「金、金、金の日本人になってしまった」といふ精神主義的なことも、同時に、言ってゐる。

 ①日本人の精神主義を取り戻して、日本人が、特に富裕層が「今だけ、金だけ、自分だけ」をやめたら
 ②毎年右肩上がりの経済的を取り戻せる
といふ論理でせうか?
 まあ、たぶん、この論理で、政治家や経団連の人たちを非難してゐるのでせうね。
 自分たちは庶民だから、なんの反省もしない。反省なんてする必要ない暮らしをしてきたから、らしい。
 ワルイのは、竹中なんとかさん。

 高齢者が孤立している社会、幸せじゃない社会
 
かういふ社会をつくったのは、高齢者たちです。
 一人一人、みんな、たけなかへいぞーでしたよ。価値観がね、生き方がね。

 日本がどんな文化で、どんな伝統のもとにどんな暮らしをしてきたかを、高度経済成長期に入ったときから、日本人は、まったく考へなくなった。
 精神面に関しては、欧米人を見習って、とにかくもっと個人主義になって自由になって民主的になればいいのだらうくらゐしか、考へてなかった。

 お金と消費以外のことは、「英語がペラペラになりたい」くらゐしか考へてなかった。
 欧米なら、誰もが一度は手にした本は聖書でせうが、日本ではNHKのラジオ講座の「基礎英語」とか「英会話入門」でせうね。

 敗戦とともに、何が日本人に突き付けられたかといふと、欧米の侵略に抗するために明治維新を行って文明開化といふ名の「西洋化」を突き進んできた日本と日本人の、その奔走に内包される自己矛盾と悲劇です。

 さんざん必死に頑張って来た末に、世界中(欧米列強と中国)の非難を浴び、断罪され、指導者たちが吊るされた。
 原爆を落としたはうの国の指導者ではなく、落とされたはうの国の指導者ですよ、念のため。
 
 天皇制ファシズムの軍国主義の日本、ユダヤ人大虐殺のナチスと並ぶ・世界の敵、アジアを侵略してアジアの人々を殺しまくった帝国日本といふことになった。
 日本人は褒められたことより批判された内容に敏感ですから、侵略だとかファシズムだとか言はれたことは胸に刻んで、それからはとにかく平和で愛想のよい、自由な民族を目指した。
 保守派も、西部邁氏と愉快な弟子たちなどは、関東大震災の際の朝鮮人虐殺について真摯な表情で反省するのを好みます。かういふ日本人の残忍さ愚かさについては、イギリス人やフランス人のことに言及して相対化したらあかんのださうです。保守派って道徳家なのね。

 それはいいとしても、西洋化とはどうしても相容れない日本文化のことは、経済復興の忙しさの中に忘れ去れられました。
 忘れたかったのかもしれない。

 大東亜戦争が始まり、西洋と軍事的にも対等に張り合へてるといふ・驚愕の事態を背景に、やっと、国際社会(つまりは欧米列強)のものまねばっかりでなくて、日本は日本でやっていってもいいんぢゃないかなといふ話し合ひが一度はあった。

 近代とは何か?
 科学技術による都市化された世界のなかで、地球上の各地域が国民国家を砦として、グローバルに利権を争ふ時代だとわたしは思ひます。
 
 ちゃっかりと神を利用して得た人権、それから理性的人間の幻想から持ち出してきた自由などの近代イデオロギーによって正当化された「市民」たちの利権が、王制を倒して生まれた(西洋の)近代国家。
 それらの国家のグローバルな利権争奪戦。

 日本は、二十世紀になってそれに巻き込まれ、二度と、その争奪戦から逃れて島国に入り込んで鎖国することはできない。
 だから、近代の超克は、できない相談です。

 それを、できないとわかってゐながらやってみた京都学派はエライとわたしは思ってゐます。
 
 最初からできない相談だから、もちろん、具体的にどうするといふ策もでず、あいまひな観念論、哲学談義に終始しました。

 それでも、戦後の日本人のやうに、なんにも考へず、ただただ消費生活を楽しみ、今になって財布の中のお金が少なくったとたん、
「孤立だ、分断だ、心が貧しい」
と言ひ出す様子に比べると、はるかにあっぱれだったとわたしは思ひます。





 

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