民主主義は何が正しいかを多数決で決める
日本保守党も、やはり、自由と民主主義、そして人権を尊重する国家として価値観外交をすると言ってゐます。
さう思ってゐるのだらうし、さう言はないと、右翼として今の日本からは葬られます。
右翼とは、街宣右翼や靖国神社で軍人コスプレしてをしてゐる人たちのこととして、日本では刷り込まれてゐるからです。
以前、下の↓記事でも書いたことですが、民主主義に関してわたしが思ってゐることの中核にあることなので、ふたたび取り上げます。
百田尚樹氏は、結党会見で、保守とは何かに触れて次のやうな意味のことを語ってゐます。
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保守とは、謙虚であること。
これまで築かれ、受け継がれてきた社会を尊重する。
その社会のだめなところを変えるときは、ゆっくり変へる。
ゆっくりとはグズグズするといふ意味ではなく、一部の意見だけで性急に変へてしまふのではなく、
国民の六割七割、八割ぐらゐが「これは変へるべきだ」と考へたときは変へるといふこと。
国柄を変へるときは、これくらゐ慎重にやるといふことだ。
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つまりは、民主主義の国なんだから、多数決で決めるといふことです。
LGBT法案を自民党が法制化して、野党もまったく反対しなかったときのやうな、日本利権ファシズムとは、民主主義の御旗を掲げて、全面対決するといふ姿勢を示したわけです。
そのときによりどころなるのが、国民。
国民の大多数の良識。
だからこそ、ものごとを決めるときは、多数決でやらうといふことになるのです。
けれども、わたしは、前の記事で書いたやうに、一口に多数決といっても、その対象とされることには性質の異なるいくつかのものごとがあると思ひます。
①多数決で決めていいこと
②多数決で決めるべきこと
③多数決で決めてはいけないこと
④多数決では決められないこと
今考へても、ざっと四つ。
それから、
国民の大多数=良識、常識、庶民の智慧
といふ等式が成り立つのかも疑問です。
いや、わたしは、むしろ、人間は集まる数が増えるほど、衆愚化するといふ偏見を持ってゐます。ヒトラー総統と同じ意見なのです。
ヒトラー総統閣下は、
「だから、私が、愚かな君たちに代はって、考へてやる。
私は、君たちを、考へ、悩み、迷って人生を浪費することから解放する。
君たちは、私についてくればいい、それだけでいいのだ。」
とおっしゃるのですが、それには、わたしは反対です。
総統閣下にそこまで負担をおかけするのは心苦しいことだからです。
少しは、わたしたちも自分で考へて苦しみ悩むといふ負担も引き受けたい。
なんでもかんでもテレビ新聞はウソだ、ネットから教はるといふ今の態度ではいけない。
多数決で決めていいことと、いけないことを明確にしたうえで、民主主義といふ、ヒトラー総統閣下にとっては「尻(けつ)の穴より臭い民主主義」制度を、鼻をつまみながら運用するしかないとわたしは思ってゐます。
かつて、サヨクたちの鼎談において、天皇がもっと人間らしくふるまへば国民の人気を得られるといった話がひんぱんに出たことがあります。
人間天皇に本気で取り組めば、天皇の人気は爆上がりするだらうとサヨクたちが言ってゐました。
たとへば、大相撲を天覧する天皇が、「俺もやる」と言って、パンツ一丁になって土俵に上がったら、国民が大喝采するだらうと言ってゐました。
実際、大正天皇は、ちょっとさういふ、庶民の王様的な言動があったようです。わたしは、そのことを知ったとき、若いときはスポーツマンでもあった大正天皇が突然精神を病んで没したのは妙だな、暗殺されたのかなと思ったりしました。これは、余談でした。
わたしの意見としては、
国民の人気を得た天皇、国民にセレブとして愛される天皇、それらは、天皇制の空洞化を招きます。
神社のご神体が置かれた拝殿の奥を、みんなの娯楽室にするやうなもの。
なにものの御座(おは)しますか、それがわからないといふ神秘、そして、神秘を担保する禁忌がなければ、祈りの対象となるものは消えて無くなります。
だから、サヨクたちは、天皇が人間くさい言動を取ることをしきりに勧めてゐたのです。
今の国民なら、誰か、東さん成田さん落合さんといった知のスーパースターなどから、
「天皇は世襲はやめて、世界に向けて公募しよう。
国民みんなでオーディションするんだ。
天皇フェスの始まりだ!」
とでも言へば、
そのアイデアは国民投票で軽く八割の賛成を得て、実行されるやうな気がします。
民主主義が、とんでもない愚かな選択をすることは、歴史が証明済みです。
それでも、民主主義しかない。
民主主義は考へられる限りで最低の制度だが、民主主義に代はるものは無い。
そして、
これを逆さまにしたときのことも覚えておくはうが無難だと思ひます。
民主主義に代はるものは無い。しかし、民主主義は考へられる限りで最低の制度だ。