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すべて所詮煩悩なら
役に立つことがしたいです。
楽しいことしたいです。
好きなことがやりたいです。
利他主義は間違いなく高尚です。
利己主義は間違いなく低俗です。
自分の得しか考えず、ほかの誰かや地球の環境が不利益を被ってもどこ吹く風。
そんな利己主義より、
ちっとでも
世のため人のために動くべきだ。
そりゃ自分の利益もある程度欲しいけど。
身に余るほどの幸せは要らないから、その分誰かに分け与えたい。
シャンパンタワーのように、
あるいは田んぼに水が引かれるように。
幸せやゆたかさが溢れて染み渡ってゆけば、いずれ世界中、すべての生き物がちゃんと幸せになれるのではないか。
何十年何百年、
何千年後になるのかもわからないけど。
そういう未来に至る可能性がある以上、今から種蒔きみたいな意味も込めて、利他の精神で世界に相対していった方がいいのにはちがいないのです。
しかし、このように
「善いことがしたい」
「善い人になりたい」
「だれかの苦しみを取り除いてあげたい」
という
いわば正義。
善の欲求でさえも、
高い視点から見たら
煩悩に含まれるのかもしれません。
お釈迦様が仰せのように、この世は一切皆苦(いっさいかいく)なのだとしたら。
生まれてから消滅するまでの感情の揺らめきは、そのすべてが等しく【苦】だと。
『人の役に立とう』というミッションは、「役に立てない歯がゆさ」「役に立ったのに、恩を感じてもらえない不満」「本当は自分の存在価値を見出したいから、役に立てる場所を探している」といったような葛藤を、己の内で育てる要因になりかねないのです。
いずれも『役に立ったかどうか』とは無関係な問題、自分の心の問題です。
即ち、煩悩にあたるのではないでしょうか。
支えたい
愛したい
救いたい…
ぼくは、これらのwant toはいずれも素晴らしいものだと思っていますが、その裏には、
〇〇することで
自分に都合の良い△△を得たい
という感情が、ゼロではないと思うのです。
無償の奉仕ではなく
価値と価値のトレードオフ。
即ち取り引きですね。
前にもご紹介した「ザ・メンタルモデル」にこのトピックスが取り上げられています。
愛するという概念を
「行為、行動」と認識している時点で、
それは取り引きにほかならないのだという主張。
度肝を抜かれましたね。
おもしろそうでしょう。
ぜひ読んでみてください。
利他の話が煩悩の話になり、いつの間にか愛の話になりかけましたが、何が言いたかったのかというと
結局〇〇したいという願望は、善い悪い関係なく等しく煩悩に過ぎないのかもしれない。
それでもなお、進んで善い行いをしていこうということです。
そっちの方がみんな笑顔になるし、気分良くなるし。そんな、生命が生き生きしている地球で暮らした方が、絶対自分が生きてて心地良いにちがいないので。
だから結局言いたいことは、煩悩全開で自分の好きなことに生き、役に立つことをして過ごしていこう!ということでした。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。