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哲学エッセイ:非-主義的個体の哲学と「あいだ」について
ところが、どうだ?他面において、外界はわれわれの感官の産物である、と主張する者がいるとは?もしそうならば、われわれの肉体とても、この外的世界の一片であるからには、われわれの感官の産物ということになろう!またそうならば、われわれの感官そのものとても――われわれの感官の産物ということになるだろう!
こんな文章に触れてわたしは戸惑った。しかし、風呂に入ってただちに新たな着想を得た。それが、「非-主義的個体」というものだ。
わたしたちは、ついうっかりすると、個体を、または自分という個体を、共同体のアナロジーで捉えてしまう。これは、それだけ共同体感覚というものが、間主観性というものが、わたしたちの現実性として強い、ということだろう。
しかし、どうだろう。わたしという個体は果たして「主体」的だろうか?
わたしは、この問いに応じたい。哲学を馬鹿にすることが、真実哲学することなのだということだからだ。
例えば、わたしが散歩をしようとすると、あとはほとんど既に形成されたモードによって自ずから一連のモーションは実行される。コミュニケーションとて、仲のいい友達とでも話せば、一連のモーションが実行される。また例えば、虐待は一環のシステムである。なぜなら、親のモーションと子のモーションはいつも固定されているからである。そして、学校に行けばいじめられる子供は、学校においていじめシステムの円環に入る。会社でも監獄でも同様の様子がみられる。先験的なシステムがシステムなのではなく、作動し続けることによって円環は閉じている。
さて、そうすると、ここにデカルトが述べるようなありもしない「意志」は想定できない。ヒュームにならって言えば、この連合—或いは連接—は一個の神経回路のような「習慣」である。したがって、意志は習慣で説明できる。意志を強くしたいとお望みならば、習慣を意志的にしさえすればいいだろう。しかし、そのとき失う快活さ、創造性、フレキシビリティがあるのだ。
そうすると、散歩の事例において、「わたしが散歩をしようとする」ではない。むしろ、わたしが散歩をしようとする、である。或いは、意志が習慣であるとすれば、「わたし」とは「輪多志」である。モナドロジーのように回路の円環が作動し、ウェルニッケ野とブローカ野と弓状回に御言葉が作動している。
そうすると、もはや主体は主体ではなくして主体である。確かに習慣としての意志、能発性、主体性はあるが、それはさまざまなしかたで強化された前頭連合野とその諸記憶の内実のマトリックスである。
アクチュアルなところで言えば、例えばデカルトは『情念論』において「恐怖」と「大胆」を分ける。同じく不安から出発するのだが、不安の後に継起する情動として、「恐怖」で逃走反応に出るか、「大胆」で闘争反応に出るか、という頗るこんにち的な議論である。そこで、わたしは言う。例えば、足が震えるのを落ち着けるために息を吸って、ゆっくり息を吐くとき、わたしは呼吸するがわたししている。
これは哲学的言説ではなにも真新しい言葉遊びのたぐいではない。事実、井筒俊彦はイスラームの存在論哲学者のイブン・アラビーを引いて、「花が存在する」ではなく「存在が花する」と言っている。井筒はユングのエラノス会議のメンバーだったのだが、近しくはユング派心理学者の河合隼雄が、彼を引用して、もう禅の境地で深いところまで行くと「存在がわたししている」としか言えないところに行く、と言っていた。
事実、活動態が偶然性において個体化を開始し、個体化し続けるところにおいてのみ―個体は、否、個体化は個体化し続けることにおいてのみ個体化しているのだから―、個体は個体なのである。だから、プリウスとしてのデュナミスが個体化し続ける活動のプロセスは、何か。それは、日々「糧」を取り入れること、そして、エントロピーを放出すること、すなわち、端的に言ってご飯を食べてうんこをするということである。
しかし、服を着ている間中、例えばぶかぶかの服を着ているとき自動的にその服ありきで自動的な行為が実行されるように、道具はわたしの身体となる。これはちょうど、肺に吸着される前の酸素、消化管のなかの食物である。おならは内なのか外なのか。もっと言うと、女に射精したとき、精液は内なのか外なのか。
共同体はこのかぎりではないので、さらなる考察の余地が開かれる。しかし、ニーチェも間違いを犯した。ニーチェは、冒頭にみたようにして自己原因の帰謬を批判しながら、自身は「権力への意志」という主体をどの衝動よりも強い生の目的論的原理として立ててしまった。これがニーチェ哲学のリミットであった。さて、しかしニーチェを愚か者とは呼ばない。ニーチェは、伝統的な「霊魂原子論」にかわって、「主観複合体としての霊魂」や「衝動と情動の社会的構造としての霊魂」が言い出されることを予言している(『善悪の彼岸』)。おすぎとピーコ。現象学。社会学。これを言い出すと、何が出現するか。さんざんテレビでも聞かされてきたような『空気の研究』が始まる。『失敗の本質』が言われ始める。
前衛党理念において、党が前衛を担うとき、いかなる理屈付けがあれ、前衛党は「主体」である。規範が共同体の結束を保証するとき、規範はわたしたちの「意志」を形成する。だから、「あいだ」の問題、「あいだ」の病理、主観性の「あいだ」、<あらゆる透明な幽霊の複合体>について考察することの課題は残されている。だから、個体において個体を語っているだけではしょうがないところまで来ている。わたしたちは、Ich denke……の超越論的統覚を語るのではなく、むしろ「あいだ」の考察を進めなければならない。或いはわたしの個体化において「あいだ」を形成しなければならない。それが当世流の個体化の原理と共同性の考察の基本指針であろう。
2024年12月31日