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非哲学的思惟形態に関する考察:陰陽二元論について
わたしたちは日々思考しているが、それがうまく整理されたら、より思考に迷いがなくなり、スムーズになるはずである。具体的な事物に関しては、人はそれ自体に関わっていくことができ、その都度の訂正をはたらかせることができる。しかし、抽象概念など、抽象的な事柄の思惟において、わたしたちに何らかの手がかりがなければ、それをうまく扱えない。わたしのよく語るところの河本(カワモト)哲学としてのオートポイエーシスは、確かに専ら個別具体的なところから自己組織化するかたちで生成していくが、それはそうだとしても、その当の個別具体的な人間が生成するに際して、既に歴史上の誰かが通過した思考の筋道とそこから導き出された概念を改めて辿り直すのは、あまり理に適ったものではない。そこで、わたしがこの課題を一般的な問題に開かれるかたちで語り直すとすれば、具体性から抽象性に向かう道だけではなく、例えば歴史的に構成された文化的変数のメルクマール的な手がかりとしての抽象概念に嚮導されるかたちで思考をすすめる方法を検討する。これはなにも真新しいことではなく、いわば中高生などがよくする抽象的な思考を、文化的なかたちで洗練される方法である。恐らく、この思考を全く使わないという人はいない。だからこそ、「合-理」の論はまさにデカルトやスピノザなどの大陸合理論において、デカルトが「明晰判明の規則」と言い、スピノザが「幾何学」をモデルとしたように、抽象的な思考を明晰判明にするためのツールであろうと思う。具体的な他者と関わる際には、ただちに一般化せず、理性や表象=再現前化するしかたの存在論的ファシズムで確定しないような粘り強さが必要になってくるのであるが、それとは別に、わたしたちは既に歴史的に構築された学の、抽象の世界にも住むものである。わたしが目下考察を進めている関係と個体の問題についても、ニーチェは『善悪の彼岸』で、個体化に関わることではあるだろうが、「霊魂原子論」ならぬ「衝動と情動の社会的構造としての霊魂」の哲学を予見しており、恐らくその連関で思考されたところの断章に、スピノザ流の「自己原因」が帰謬に陥っているとする指摘がある。これを真面目に受け取って考えてみようというのが当面の試みである。
例え
良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造つたことはない。
とは言うものの、これでは良心のある者が道徳に嚮導されるかたちで自己を形成していくしかたを何も語れていないのである。<経験>は、たんにイギリス経験論の語るような帰納法のみならず、当然そうして構築されたものを現実に当てはめるものとしての演繹も含むのであり、さらに言えば、演繹と言わず、文化的構築物を導入するさい、わたしたちは手掛かりに嚮導されるかたちで進んでいくものである。
思惟形態としての相補的二分法
人間は、言語学が明らかにしたように差異のネットワークによって「それが何であるか」という本質をとらえている。そこで人間的な能力に適合的な思考法は、おそらく二分法である。しかし、西洋に広くみられる二分法思考は、主に「善と悪」、「真と偽」、「美と醜」、「存在と無」などのように、そのどちらかを優位に立て、どちらかを劣位に置く、いわゆる「善悪二元論」である。例えばこれは、ニーチェが古代ギリシアから引いて言うところの「貴族的」、「奴隷的」といった思惟にも関係しているように思う。
一方で、東洋は中国における「陰陽二元論」の思惟は、陰と陽を相補性でとらえ、そのどちらかを優位にするということがない。それをわかりやすく図示すると太極図になる。すなわち、陰陽二元論にあっては、デリダが標的としたような西洋的思惟における「二項対立」という語に含まれる優劣の含意は生じないのである。ここに、善悪二元論をも相対主義をも経たこんにち、注目すべき理由というものもあるのではないかと思う。
ちなみに、「陰陽」は「男女」ではない。これは、例えば陰陽二元論や理気二元論を学び、またそれが面倒であれば朱子学をやっている友人の話でも息長く聞いてみればいいが、そうしていくと、陰陽を男女でとってしまうといわば「台無し」になってしまうのがそれとしてわかってくるというものである。河本英夫も、陰陽は男女ではないとはっきり言っていたものである。
では、それでなぜ一体敢えてして二分法を道具として用いるのかというと、それで思考内容が整序され明晰-判明になるからである。抽象概念を二分法コードに従ったかたちで、その差異を認識することで、差異のネットワークが出来上がっていくのである。だから、ある概念の対概念は一つでなくてもよいが、先述した適応性の理由から、それは対である意義がありそうなものである。抽象的な思惟の領域において、二分的な対は最もよくコントラストを浮き彫りにする。
ここで「概念、概念」と連呼しているので、「概念」というもので考えてみよう。以下、Chat GPTに「概念」の対義語を質問した際の回答。
具象(具体)
概念が抽象的なものを指すなら、それに対して具体的な事物や現実的な対象が対義語になり得る。実体
概念が観念的なものなら、物理的・実在的な「実体」が対義的になる場合もある。現象
概念が思考や理論で捉えるものを指すなら、感覚的・直接的に捉えられる「現象」が対立することも。個別
概念が普遍的・一般的な性質をまとめたものを指す場合、それに対して「個別」が対義語になることがある。
これらが、「概念」という概念の相補的な対関係として捉えられるのである。だから、この仕組みは世間に流布する善悪二元論(もっとインターネット的に言えば1bit脳)とは比較にならないと言えるほど柔軟性にすぐれており、いつからでも気づいたときに付け足すことも可能なのである。
こうすることで、例えば「精神と身体」などの二元論をとるにあたって、うまく分離することが可能となるのである。例えば、哲学を徹底させてもはや唯物論でも唯心論でもないしかたで実在を括弧に入れ、専ら立ち現れる「現象」から出発するとき、先に出てきた現象の対としての精神(理に分類)に帰属するものとしての概念と、身体(気に分類)に帰属するものとしての具象を、明確に区別できるようになるのである。
しかし、これはかなり曖昧な恣意によって敢えてして明晰にすることで成立しているようなところがあるので、例えば、「認識」は身体に分類されるのか、精神に分類されるのか、など、判然としないところが出てくる。この場合のように、新たに分類をする思考は、権威に委ねられるか、全く以てセンスである。
おわりに
ここまで考えてみて思ったが、この思惟形態は、ものごとを粗雑にしてみる世界解釈の技法である。基本的に、哲学において心身問題は基本的に解けないしくみになっているように、同時に、哲学においては、そのような所与の枠組みはないのである。枠組みがないところに哲学の面白さがあり、また難しさもある。しかし、人の生とは、基本的にそうしたものである。
枠組みをもうけるところには、もちろんメリットもあろう。それが、思考の安定化であったり、速度であったりする。しかし、同時に、安定化は抑圧の一種ともなりうる。速度は、粗雑の一種でもありうる。ここに、「哲学する」という本性自己組織的な営みと、「文化する」という本性習得的な営みの根本的な差異がある。だから、自己組織的な哲学者が何らかの文化的な変数を習得しようとするさいには、およそ間違いなく、哲学の思惟形態ではなく、文化の思惟形態をとるのがベターでりベストである。そうすると、形式の自由と空想の不自由の指すところの固有の意義もわかろうというものである。哲学の思惟は必ずしも不自由ではないが、文化の変数を習得するに際しては、わたしは、根本的に哲学は向かないと考えているのである。
2024年1月2日