【連載企画】関係と個体のゆくえ 一、インターネット空間時代における離接的総合論
わたしたちが専らニューロンのネットワークで感じる存在であるとすれば、その疎外されたものの逆立としての世界はリゾームである。
この企画が、親を離れてこの社会のこの時代で生きていく人の一助となれば、望外の喜びである。
本稿では、インターネット空間時代における対象関係と個体化のゆくえを考察する。それは必然的に、ひいては新しい生活のあり方へ向けて、読者への問い直しを迫ることになるだろう。
この記事を読まれた方は、半端な読み方であってもいいから、ぜひコメントをいただきたいと思う。或いは、自分で関連記事を作るでも、リプライを送ってもらうでもよいが、ぜひリアクションが欲しい。そうすることで、共同的に語ることができるようになり、次の記事にその知見をお貸ししてもらい、反映することができるというものである。
『動きすぎてはいけない』(千葉雅也)「序-切断論」から考える「動きと切断の哲学」
動的構造の離接的総合論
パッケージの消失、と書きつけて本稿を始めることにする。80年代の前半に、浅田彰はこんな文章を書きつけている。
しかし、そうした「パッケージ」の時代は終わった。今や、各々が好きなときに好きな行動をとることができるようになり、各々の経験に要する時間が短縮されたことで、何が起こっているのか。これが問題の勘所である。
エコーチェンバーがわたしたちを取り巻いて久しい。そもそも村社会がエコーチェンバーであったことは言うまでもないが、こんにち、そうした社会にはそなえられていた他者性が大きく縮減され、個人のタイミングによる偶然性により構築された反響する空間性—それがYouTubeのおすすめ動画であれXのタイムラインであれ—が、わたしたちを取り巻いている。わたしたちの共同精神ではなく、わたしの心が何の比喩もぬきに疎外され、動画や投稿といった目に入るものとして逆立するようになった。もはや、疎外は労働がその主要な事例ではなく、わたしたちの住まう生活世界が端的にエコーチェンバーで構成されるようになった。わたしは、このことについてこんにちの水準で最もうまく語れていると思われる、千葉雅也氏をひとまずの大きな参照点にして、この課題について取り組むことを始める。
千葉雅也の論考である『動きすぎてはいけない』を読むと、千葉雅也のイメージが変わる。そう請け合える。たんなるインターネット哲学者(ネト哲)ではなく、本当に哲学が好きなんだなということ。そして、生きるということに悩んできた人なんだなということ。彼は荘子やニーチェをも引き合いに出し、ジル・ドゥルーズの「生成変化」を「切断」と「接続」の原理に基づいて語る。ちなみに言っておくと、人が対象とカップリングし、またデカップリングするとき、わたしたちは確固たる「私」という主体がそうしているのではなく、「切断」と「接続」をつうじてまさに「主体化」=「個体化」をし続けているというのは、比較的近代西洋の共通見解に近いところがある。個体化について語った者は多くおり、ゲーテやユングが著名であるが、彼らとは別様の「主体化」についての示唆がドゥルーズにはある。それは、混沌たる同一性の「おいしいスープ」に回収されることのない、最初からそうであり、かつ不断に隆起する「無人島」として。すなわち、明確に差異より始まり、まさに他者と自己を反復し続けることによって不断の「脱組織化」を続けるものとして。そして、この「切断」と「接続」の作法による主体化こそ、ドゥルーズが「離接的総合」という概念創造をしたその内実である。
ドゥルーズが『差異と反復』で述べる「脱組織化」は、要するに、差異を表象=再現前化(ルプレザンタシオン)しない、ということである。思考しうるものになっているとき、差異は既に表象=再現前化に従属している。
さて、そうしたしだいでわたしは千葉雅也を高く評価するのであるが、さらにこの著書は「熱い」本である。皆さんも、読むだけで体験が得られる本は多くあることを知っていると思うが、この本もまたその類である。
実存主義は、比較的プリミティヴな「自由」を励ます哲学であった。しかし、その限界は既にサルトルその人の後半生の「実存」が示したように思う。
一方でレヴィ=ストロース以降の構造主義は、個体が実はプリミティヴに「個体」とは言えず、まさに広く言って「構造」を反復し続けることで個体化し続けていることを明らかにしたと思う。
さらにその後にただちに起こった展開として、レヴィ=ストロースやラカン以後、今度は、「構造」自体の内的破綻を突く「ポスト構造主義」の大運動が生起する。
「生成変化する」ことが不断に行われていることの肯定とは、「別様になり続ける」ことの肯定である。だから、ポスト構造主義を端的に言うならば、「差異」の哲学である。これは例えば、「皆が一様」であるのではなく、「別様に考える者は、自らすすんで精神病院に入るのだ!」と主張するツァラトゥストラ=ニーチェの思想に通底する。
しかし、『動きすぎてはいけない』と言うタイトルが示すように、本書で強調される千葉=ドゥルーズは、適度に狂気であること=適度にジャンキーであること、を強調する。狂いすぎてはいけない。経験則上、適度に狂っていることは健常であろうとするよりいっそうの健康さをもたらす。否、健常であろうとする努力は往々にして破綻する。自分が健康におかしくあれるところでおかしくあること。わざわざドゥルーズ流のサーフィンをしたくないという人がこの分野に触れる際は、「適当なおかしさ」を見つける態度で読んでくれれば、やがてちょうどいいところにおさまりもつくと思う。
哲学は、「自分なりのおかしさ」に導いてくれる。以前読んだ本で河本英夫が「経験は、組木細工を少年が解くように、ガチャガチャとやっているとそのうち解ける」と言っていた。大人は、論理的に解こうとするから解けない。
わたしが地元にいたころ、男たちは2週間に一遍くらいのペースで町内の集会場に集まって飲んでいた。そこでは、傷病名やMBTIなどにとらわれない、「そういう人だから」ということが通用していた。つまり、どういう人かという言語的規定なしに、「そういう人だから」ということで、とくに規範に裁かれることもなく、受容されていたのである。一方で、わたしは哲学にはそれ以上の肯定があると思っている。哲学は思想ではない。現代哲学は、或いはドゥルーズの哲学は、「そうであるところの肯定」(存在肯定)に停滞せず、「別様になることの肯定」(生成変化の肯定)をも可能にする。これが、社会的まなざしによって硬直した「身-分」を打破することは言うまでもない。
だから、ドゥルーズ&ガタリの哲学を「スキゾ」=「危険」と見做すのは大いなる誤解である。それで本当に危険になった人を見たためしがない。千葉が言うところに従えば、或いは多くのドゥルーズ学者が言うところに従えば、この哲学は「健康化された分裂症」を志向する。先に述べた、「別様のおかしさ」のことである。
このことからも明らかなように、ドゥルーズの哲学は、ドゥルーズの哲学だけを勉強して完成する仕組みになっていない、というよりも、完成する仕組みを持っていない。それよりもむしろ開かれており、何か別の経験を実行することをつうじてはじめて意義をもつものとなっているように思う。
千葉は浅田彰が好きだ。だから、浅田の「スキゾ・キッズ」を引用する。『逃走論』より。
浅田は、「追いつき追いこせ」から「逃げろや逃げろ」への移行を提言する。「子供に生成変化する」と言うのである。
すなわち、「その場にいるままでも」。部屋の中にずっといる人でも、同じ関係性を維持する人でも、そうしながら動けと言うのである。
わたしは、加速主義のように「速くある」ことには反対である。その「褒め殺し革命論」は、行き着き先に行き着く前に、疲れ果てる。
だからわたしは、多動であれどもそんなに速く動くことは考えない。この場合にかけて言うが、わたしは「速く」「遅く」と言う場合、「他人と比較して」ということはとらない。あくまでも、歩行のペースのように、わたしなりの速度感に対して、ということである。
なお、千葉によれば、浅田の「スキゾ/パラノ」が流行語大賞の銅賞を受賞した年、金賞に輝いたのは国民的ドラマ「おしん」への共感的社会現象をあらわす「オシンドローム」だったそうである。
エコーチェンバーにせよパッケージの消失にせよ、わたしたちの時代が「物語」を喪失した淵源を探らなければならないとき、先の時代の思想性が大きく影響していることが理解されるであろう。エコーチェンバー空間は、いわば「意味の断片」でしかないのである。それを肯定する路線もあるだろうし、それを改善する工夫が求められる局面も、同一の個体にさえそれぞれ両方があるだろう。
「異質なアイデアを飛び交わせる」…河本と、カップリング相手の荒川修作は、対談した際に、河本がワーッとアイディアを出すと荒川も負けじと対抗してワーッと言って、河本がまたワーッと言う、というのを一日中続けたそうである。そうして最後に、編集の方が河本に言ったことには、「何をやってたんですか」、とのことである。
実はわたしたちの普段の会話がそのようなものであったことを悟ること。
エモーショナルな要素は理解のモードとはまた別様であるとして。
触媒として語ること。スズメバチとランのように。
スキゾ化することは、リゾーム化することである。
リゾームの第一原理は、「接続」である。「コネ」である。
最近わたしは、自身のアカウントを活用して「ネットワーク構築」をしていこうと検討して実行計画に移しているが、そのさい大事になることは、それまでの蓄積で、「このことなら誰にも負けない」という領域を持っていることで、相手とギブアンドテイクできるということである。だから、自分にとって「持ちネタ」「ウリモノ」になるものを持っていることである。
わたしが高校生の頃、わたしに対してありがたいことに指導してくれた「進路指導」がいたのであるが、その先生はわたしにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と吉本隆明の『共同幻想論』をすすめた際、「認識論の問題は全部カラマーゾフの『大審問官』で解決している」と思うと言っていた。この感度が、哲学がすべて有意味な切断をする、という思いなしの一例である。ちなみにその先生は、未だに、わたしに対して「哲学」の才能がないと思い決めている。その場合の哲学とは何かを相手にしないこと。
それに対してドゥルーズは、「非意味的」な切断を重視し、それを受けて千葉はその方向に千葉=ドゥルーズを先鋭化させる。
これは例えば、ラカン派の「短時間セッション」と似ていることを指摘できる。まあ通俗的に「セッション」なんて言えば怪しい自己啓発か何かかと思われるのがオチだが、ラカン派においては、精神分析で自由連想をしている最中に突然「セッション」を中断=終了する。これが、「非意味的」な切断である。すなわち、連想の最中に、なにかが浮かんでいる。その、なにかが浮かんでいる最中にプツリとそれを「切る」のである。浮遊するシニフィアン、或いは漂っている連想はどこへ行くのか……。
この「セッション」に関してわたしの友人は、勝手な思い込みから、これを「自分で考えさせるため」などと、明らかに間違った説教臭い解釈をしていたのであるが、事態はそうした表層的な事情ではなにも掴めない。わたしはこうしたことについては、学習によって、知能さえあれば改善の余地があると考えているので、粘り強く粗雑さを抜き去っていきたいと考えている。
千葉はそこで、「切断A」と「切断B」を区別することを流れるように提案する。「切断A」…権力、或いは権威のしがらみから断ち切ること。次、接続…しがらみの側方、横の側に、勝手に接続されていくリゾームを見出す。切断B…そのリゾームから切るところを切る。
人間が相互触媒であるという事態は、わたしと関わっている相手についても言える。だから、相手がまた他の相手と相互触媒であるとすれば、わたしは彼の認識のフィルターを通して彼方の彼らと接続している。いわば、リゾームに中心はないが、仮に中心に「仮固定の自己」を見出すとしても、実は、自己とは境界をもたないリゾームそのもののことだったのである。
この「設定」で、ずいぶんとわたしたちを取り巻く「エコーチェンバー」や「共同精神」について言えることは多いのではないかと見当をつけている。しかしこれは、わたしの読みがドゥルーズ的ではないことを意味している。これだとヘーゲル流の、わたしのいう「教養<帝国主義>」、ならぬ「存在<帝国主義>」に近いものになってしまい、ドゥルーズの味を生かせない。ドゥルーズ的に活用するならば、やはり差異の哲学、無人島の哲学として、他者は他者であるべきである。フランス現代思想は、千葉も指摘するようにファシズムへの強烈な反省が貫いている。だから、ニーチェをナチスから差異化することに一生懸命になったバタイユが、フーコーに「時代はバタイユのものになった」と言れるようになった所以でもあろう。だから、精神のリゾームと身体世界のリゾームを区別してもよいかもしれないと、わたしは所感として考えている。身体世界にあって、他者は他者であるが、精神の領域において、他者はまさに反復されることによって自己をなす他者である。
接続/切断はそのままリゾームをなし自己をなすから、いわばリゾーム論はそのまま生成変化論なのである。
しかしわたしとしては、あくまでもそれは精神の側の、表象の側の生成変化であって、もう一方の身体や意志といった本質については、たんに接続/切断程度では、或いはどうであろうと、よほどの科学的進歩がないかぎり変わりようがないから、そこは動きようがないとみている。自分なりの接続と切断を行うこと。前時代的な不倫の美学ではなく、偶然の出会いであっても動かさないところは動かさないという強度をもつこと。朋友の信を裏切ることは、率直に言って背信である。ヒトラーの青年時代唯一の友人であったアウグスト・クビツェクは、戦後、なぜ独裁者になったヒトラーに招かれた時にヒトラーを殺さなかったのか、という趣旨の質問を戦勝国側から受けた際、一言「友達だからさ」と答えたそうである。
スピリチュアリズムの課題とこんにちの被動論
全体性への反動に貫かれるフランス現代思想、そうしたところで、経験的な非ファシストは、実際のところ関心が様々に偏っているしかない。わたしたちの生理学的な身体には圧倒的に多様な差異があるのである。
しかし、と、浅田が言い、千葉が強調する。というのは、そうした事態においても、こんにちもみられるように大勢の若者は、ある種のウォークマン中毒者のように、「エレクトロニック・マザー・シンドローム」、すなわち「自閉的」な状態に陥っていく。
わたしはこれを悪しとしない。むしろ、本稿を書いているわたし自身自閉症スペクトラムであることからして、その自閉的に、変化率=強度の低い安心感に身を置き、その余白の部分で、同様に自閉的だが「微妙に異なる他者と」関わりを持ちたいのである。あくまでも、わたし自身の自閉的身体の安らぎが先、そのうえに、ポップでストレスを発散し、生産性もあるような関係性の「楽しみ」があるのである。だから、わたしは現代思想に特有の、無駄に「造語」をして「病名」を増やすようなしぐさには反対なのである。
あくまでも恐れずに既存の病名に基づいて、有効なことを語ること。
千葉は、ここで、本来浅田のスキゾ的という経験は、「よそ見、より道」や、さらに言えば自閉的な視野狭窄などによる不意の「切断」であったはずが、浅田の書き方だときわめて「知性的」に切断する、というようになってしまっている、との指摘をする。
千葉は、このわたしたちの「中間痴態」としての非意味的切断に賭けるというようなことを言う。
わたしはこれに一面的に賛成であるが、完全な賛同はできかねるところがあるように思う。というのは、先に述べた「老荘思想」や「スピリチュアリズム」の課題と同様の理由からである。
かつて、教会が、寄合が、村を支配していた時代、週に一度の説教、週に一度の寄合は、一週間の持続力を持つ「意味」への接続であった。それも、説教に関してはおそらくは厳格に決められたものというよりも、神父が偶々その箇所を取り上げた、というように。
時代が下って、マスコントロールの時代になって、人々は前日に取り上げられた場所に殺到するようになった。
やがてこんにち、人々はマスコントロールではない偶然のエコーチェンバーの「切り貼り」を生きる。いったい、説教の切り貼りと変わるところはあるのかという気もしてくるが、少なくとも、それがタイムラインの意味のない偶々の目に入る切り抜きなど、個人化されたところに大きな意味があるだろう。現代は「情報洪水」の時代である。だから、わたしなどは、修行として書き続けることが同時に自分なりの接続と切断の同時進行でもあるような訂正のしかたで、書き続けるのである。
情報は、ただ雑然と受容してそれの被動で生きていては、まさに洪水に流される人である。それもそれでよいのだが、そこに、こんにち既に老荘思想が役目を失っているということも指摘できるだろうと思う。こんにち、老荘思想の教えるところのように無為自然に生きていては、かえって「身が持たない」。
ここに、わたしが現代においてなお聖書などの古典的な聖典が有効性をもち、「大いなる受容」のような感度の専ら受動的なスピリチュアリズムをそんなに高く評価しない理由もある。結局、情報洪水のなかでそうした態度をとると、たんに流されるだけである。だから、荘子などの「長い読み物」が有効性を持つとすれば、それはまさにそうした長い読み物にカップリングできる仕組みが備えられていることで、もって現代の情報洪水から自身を守り、接続先を古典に委託することができるからである。しかし、肝心なのはその一つ一つ異なる古典の経験の、細やかな差異であることは言うまでもない。しかしともかく、長い経験は、わたしたちを意味の断片化から保護する避け所としての役割を果たしうるのである。
いわば、わたしたちは他人と関わることだけではなく、例えば聖書を読むことによっても、神との対関係が構築できるのである。対幻想は、なんの工夫も労力もなしに得られるものではない。それが朋友であれ恋人であれ。
わたしがYouTubeでしばらくスピリチュアリズムの動画を、経験に参与しつつ内在的に観察したところ、結局あれらは、以前わたしが「主体の<法>」で論じたような「情報過多」に行き着くのではないかという懸念が出た。情報過多の行き着く先、それは比喩的に言えば昏迷的な状態である。むろん、あれを活用する人たちは、さして接続先を設定せず、また適度に常識の現実感をもって生活を営むのであろうから、そうしたことは哲学が仕事とするところではない。哲学は、批評とは異なり、明確にその設定だけでどこまで展開できるかを問われており、哲学を道具としてみた場合にあっても、それは単体でも道具的に使用できる役割を備えていなければならないと思う。
千葉もわたしと同様に「インターネット空間」の住人として、「切断」を強調する方向に舵を切る。「千と千尋の神隠し」で千尋の父が言うように「バブルが弾けて」、消費社会を褒め殺す加速主義的言説の時代は終わったのである。もはやバタイユではない。
千葉がドゥルーズを引用しながら提唱するのは、「熟慮されざるコラージュ」である。わたしは個人ブログやTwitter初期メンバーのようなある種のお高い層ではなく、むしろ2chのVIPや嫌儲やなんJ、ニコニコ動画のボーカロイドやMAD、各種まとめブログなどを遍歴してきたタイプで、今ようやくTwitter(現X)に落ち着いた者なので、これには馴染みがあるが、おそらく千葉よりも多くを語れる素材と経験を大量に持っている。この「思い付き」で出たとこ勝負をする熟慮のなさが、まさにスズメバチとランのような「アイデアを飛び交わす」新しい交通の作法ではなかったか。
ドゥルーズのヒューム主義にみる主体化論
ヒュームは、伝統的な確固不動の「主体」について懐疑し続けた人物である。千葉の言葉を借りると、「ドゥルーズ哲学の幼年期」は、ベルクソンではなくヒュームである。ドゥルーズは、最初期に『経験論と主体性』という著作を書いている。
ヒュームの問題を、カントは問題にしなかった。すなわち、カントは、『純粋理性批判』で明らかなように、「経験の可能性の条件」となる主体を明確に規定してしまった。そうした態度のうえに成立するのが「カント哲学」である。その後に登場するシェリングやヘーゲルにおいてもそのような現実はない。
ヒュームの懐疑から導出されるのは、わたしたちの信念体系が、実は「連合説」による、経験的な(習慣的な)信念の強化によるものではないかということである。このことについての千葉の記述は、『構造と力』において浅田が、「象徴秩序」の強化ということを述べていることと対応する。
実は、象徴秩序が確固不動の「スタティックな構造」ではないということを、および、ことに現代がそのような時代ではないことを知ること。そうしたところに、ドゥルーズ哲学のヒューム主義が成立するのではないか。だから、ドゥルーズ的に言えば、「安定」は、実は「準-安定」でしかない。
このようなしだいで、わたしたちは、差異の狂騒を様々な「強度」で経験している。
この「強度」というのはとても大切なタームであり、覚えておいてほしいが、河本英夫がドゥルーズに対抗的に敷衍して言うには、「強度」=「変化率」である。まさに自己の系が変化しているそのときに「知覚」されるところのもの。それが「強度」である。
例えば、普段部屋にじっとしていても部屋はたんなる部屋であるが、旅行などに行って自己の系の状態を揺さぶり、帰ってきたとき、誰しも部屋にえもいえぬ「違和感」を覚える。こうした事態でも「変化率」を知覚できる。
カント的には、わたしたちは「権利上」理性的であるが、ドゥルーズに依拠すると、わたしたちはつねにすでに「権利上」狂態なのである。
千葉はそこで、アンリ・ミショーの『みじめな奇蹟』(1956)を引用する。
これが、千葉によれば、ポップに危ないドゥルーズ&ガタリの感じである。わたしたちは、このような情景を常日頃抱えて生活をしている、ということだろう。
象徴秩序については、わたしは神経科学的なニューロンの強化で語ることができると思う。象徴秩序の強化とは、特定の神経回路の強化の比喩ではないのだろうか。そうすると、まさにヒュームの連合説ともよく合致するものである。わたしたちは、信念を連合によって強化することで、わたしたちの環境世界を基礎づけている。すなわち、いかに有効に展開できる基礎づけをもつかということが、わたしたちの課題だったのではないだろうかと思うが、しかし、人は環境を、また「接続先」を変えて生きていく生物である。そうすると、そう一筋縄にもいかず、わたしたちは日々信念体系を変えて生きているのであって、一概にずっと同じ信念体系の基礎が持続するとは言えない。
このことについて、わたしたちはまたも問いに開かれてしまい、哲学の課題がまだ終わっていないことを実感するのである。
あとがき
次回は、ひとまず「主体化」および「個体化」ということを課題として、現代思想以前の学説を参照してみたいと思う。さらに、広範な古今東西で作動してきた「物語」を参照することで、物語論への探りも入れたい。そうすることで、わたしたちの時代の対象関係と個体化を語るに新たに導入すべき言葉も見つかるだろうし、また、より有効な変数を語りうるかもしれないのである。
2024年12月17日