子供、青年、大人~過去志向の呪縛から際限なき未来志向へ~
わたしが本稿を書くのは、約半年ぶりに連絡をとりその日のうちにカラオケに行った哲学科の院生の友人との交流で大いに触発されたからである。彼は今、ドイツ観念論の哲学者シェリングの芸術哲学を専門にしているらしい。そのことについてもいろいろ語ったし、語りながら彼と私は交互に歌った。彼は界隈音楽のぺぽよの楽曲をよく歌った。わたしが終盤にブルーハーツの「終わらない歌」を入れて歌うと、かれはすかさず「情熱の薔薇」を歌い、「ジレジウス的だ」と言っていた。そしてわたしもまた「1000のバイオリン」を歌った。
彼は、親がブルーハーツを好きだったと言ってたが、思い返せばわたしにブルーハーツが入り込んできたのも、小田和正とハウンドドッグとビートルズとユーロビートとブルーハーツと尾崎豊が好きだった母親の影響である。子供の頃、わたしはきわめて母親にくっついているような子供だったので、父親の好んで聴く昭和歌謡(荒井由実や中島みゆきやさだまさしに南こうせつとかぐや姫、八神純子や中森明菜)にはあまり馴染みがなく、そちらにようやく耳が慣れたのは、わたしが高校を中退して引きこもって、当時放送されていた宮藤官九郎の連続テレビ小説「あまちゃん」に父親が傾倒しており、それを観た後に父親の車で集落めぐりをしていた時の車内においてである。子供の頃は、専ら母親の聴いていた曲のアーティストたちを「最強」と認識していた。子供というのは、往々にして、「親が好きなもの」=「最強」とか、電車=デカい、恐竜=デカい、宇宙=デカい、……「最強」、と思い込みがちである。青年がそれから離れてニッチなところに「居場所」を求めるとしても、それを離脱して大人になってみれば、ニーチェも言うように、大人の中には、青年以上により多くの子供があるものである。
なお、この話をしたのは、その先輩=友人が、「青年が嫌い」で「子供だから」と言っていたからである。先輩は、ブルーハーツは「子供」だから好きだが、尾崎豊は「青年」だから嫌いだということである。曰く、子供は「早く大人になりたい」、青年は「大人になりたくない」と思っている時点で違うとのことである。わたしは明らかに2年前までは「早く大人になりたい」と思っていたタイプだったが、人間関係の複雑なネットワークプロセスによって、かえって「青年」になってしまった。また、わたしが独自に補足するなら、「青年」は回帰願望や過去志向に惹かれる「後期ロマン主義」的な側面が強く、「子供」はひたすら未来志向で自由が欲しいという「前期ロマン主義」的な側面が強い。
今回は、そうしたところで急速に再組織化されている今、あとになってその「結果」を書くのではなく、まさにプロセスの只中で書いてみて、何が出てくるのかわからない。
青年と子供、友人たちのこと
先輩は、「自殺は嫌い」、「自殺した奴はダメだ」と言っていた。だから、自殺した文豪も嫌いならば、自殺したヒトラーも嫌いであるらしい。しかし、彼は先日ドイツ旅行をした際ニュルンベルクで深夜に「悪ノリ」でヒトラーが立った場所に立って写真を撮っている。
しかし、以前から彼がぺぽよの「±0」や「らくらく安楽死」、「桃源郷で救済を」、「拝啓」などを好んでいたことは知っていたが、今回も「めんへらーめん」を何回も歌っていた。
しかし、先輩曰く、ぺぽよはこれを「楽しんで」作っているという。「らくらく安楽死」には、「自殺が楽しいはずないし」とあるが、自殺もまた楽しいものとして作っているという意見だろう。
しかし、「めんへらーめん」には「糖分 基地外のスケッゾフェニア 電柱の錆色はサンカクメ色」ともあるが、わたしたちの先生であった河本英夫も、自身を「超スキゾ型」、「分裂気質を超えて分裂病質」としながらも、「未来志向だけの人、過去志向だけの人はいません」と言っているように、本当に全面的に未来志向になってしまったらそれはもう「スケッゾフェニア」である。そこで、未来志向/過去志向/現在志向(今元気いっぱいな躁やてんかん)は、それぞれ「モード」であると言うことができる。
また先輩は、わたしが「界隈」の話をした際、「群れ始めたら嫌い」と言っていた。さらに、「お兄ちゃんはおしまい!」のEDを歌ったあとに、「お兄ちゃんというのは大変」「すぐにやめたい」とも。すなわち、彼はどこまでも関係性からの独立を、自由を求めている心理が明らかにあるのである。
しかし、そこにおいてぺぽよや過去から好きだったものに長くこだわる姿勢は、やはり強固な過去志向である。ここに、このわたしの知る界隈人の中で、休学もせずうまくやっている先輩のバランス感覚が伺える。
一、あくまでも独立不羈の自由を目指すこと
一、しかし友人との関係や趣味の領域にこだわりを持っていること
このことによって、彼において「本分」である哲学の学習はいくらでも自由に進めることができる仕組みが伺える。なぜならば、彼はもう10代の頃に傾倒したニーチェやショーペンハウアーを読んでいないが、それでも自由を求めて、かつ友人や趣味にこだわりを持っているかぎり、どこまでも先へと進めるのである。自己の連続性を哲学におかないからである。また、彼は父母、とくに母親との間に抑圧的な過去の葛藤を抱えているタイプである。ここに、ニーチェやショーペンハウアーとの類似点を指摘できる。
おそらく、周囲の友人をよく知って、「ああ、この人ならその哲学に行くよな」「ああ、そこからそこに向かうのも明確な筋があるよな」と感じられるように、わたしのような拡散的でとっ散らかった人間にも「筋」というものはあるのだと思う。
一方のわたしは、子供の頃から既にして「歳を取りたくない」「不老不死」というのが夢で、10代半ばには引きこもって部屋にいるのに「帰りたい帰りたい」と言いながら日常系アニメの「のんのんびより」を観たり、同時期に田中角栄に傾倒し、わざわざ郊外に出向いて田園や山村を散策していたような人間なので、どうにもわたしには、先述した「後期ロマン主義」的な民俗性、歴史性が抜けないのである。吉本隆明が『共同幻想論』の「巫覡論」で指摘するところによれば、かの自殺した文豪芥川龍之介は、下層の共同体のようなところへ帰りたいという「母胎回帰」の願望を拒絶するのに、自殺をもってせざるを得なかったのだと言う。
ところで、こうした権威性を帯びて書かれて、またそうして流通している書物を読む際、よく読めるようになる読み方は、大真面目に受け取って「ひとりお祭り騒ぎ」をすることではなく、ああなんかまた評論家や哲学者風情が変なこと言ってるな、と思うように訓練して、真面目に取り合わずに読みつつ、そこに乗っかって考察したり、別様の可能性を考えることである。
そこで乗っかって別様の選択を考えると、芥川にできたことは、回帰願望からさっさと卒業することか、回帰願望をそのまま受容して関係性(相互拘束)に恵まれた環境で、新たな筆致の創作を試みることであったと思う。こう書いてみるとわかるが、彼の自殺は、精神科医の岩波明が『天才と発達障害』で指摘しているように、恐らくは彼のうつ病(か或いは何らかの精神疾患)にあったのであり、親族関係の重圧や回帰願望という話は評論家の逞しい空想力の産物である可能性が高い。彼の自殺については大量の考察があるが、知る限りの大半が、一つの事象の多面的な考察ではなく、愚にもつかないヨタ話に思えてしかたがないのである。
さて、しかしその先輩が自らを「子供」であると自己規定している時点で、彼にも幾分かの「青年性」がある。しかし、だからといってこの自己主張にまるっきり相手の心理を透かして見たような気になると言うのは愚かであるから、彼のその他の傾向性から言って、彼はいわゆる「無限の二重化」を実行し続ける「子供」である。わたしはそのことを直感し、彼に対して、「河本は無限の二重化だから、『まだ足りないまだ足りないまだ足りない』だよ、フロクロだよ」と言った。フロクロは十分大人の年齢であるが、彼はまさに大人の子供として楽曲を制作している。彼の作る作品は、とても評価するのだが、洗練されすぎているきらいがある。その点、先輩がユリイカの特集を買ったといういよわについては、年齢が比較的若いこともあり、フロクロのような洗練された感触がない。彼はしかし、「きゅうくらりん」の激しいバケツの底が抜けたような苦しみや、「一千光年」の生死に関わりのない悠久の愛を信じたい感性などにみられるように、きわめて青年的傾向が濃厚である。なお、その先輩も河本もわたしも、哲学や文学史上の箴言家と呼ばれる人たち(パスカル(河本、わたし)、ゲーテ(河本)、ショーペンハウアー(河本、先輩、わたし)、ニーチェ(河本、先輩、わたし)、芥川(わたし)、ジレジウス(先輩)など)に深い影響を受けており、また、シェリング、という関心の共通項をもっているが、河本は一年生向けの論理学の授業中に、「……それが中学高校と馬鹿教師に馬鹿教え込まされてくっだらない大人になっていくんですよ」と言っていた。先輩に関しては、基本的に大人=くだらないもの、という現実性が感じられないのである。恐らく、彼は現実性の置き場所とその狭さが通常ではないので、大人を悪く思っていないようなのである。わたしに関しては、明らかに大人に関わらず人間一般を自由の喪失態だと思っており、それでもなお最も自由の亢進する時期を大学時代と思っている節がある。言っておくとその「先輩」というのは先輩ではあってもわたしより年下なのだが、しかし彼はわたしにとってやはり憧れの先輩である。ここに、先輩以上の子供があるとは言えないだろうか。
だいたい、わたしがその「界隈」を知ったのも先輩が教えてくれたからだし、それで、界隈やニーチェやショーペンハウアーに触れ続けられるのも、どうやらその先輩への憧れがわたしを大きく駆動させている面が強いのである。こうしたわたしの経験の継続という点で、もう一人の、より関わりの多い親友に関しては、わたしも一生懸命彼を理解しようとしたし、彼を愛していたが、結局、朱子学に傾倒し政治の現実性が圧倒的に高い彼がわたしの経験を駆動させることはなかったのである。
そもそも、元祖哲学者と言っていいプラトンが『饗宴』において示したのは、ソフィア(知恵)へのフィリア(友愛)たる哲学の原動力が「憧れ」であるということであった。儒学的大人は、わたしの、またわたしたちの憧れうる大人ではとうていありえないのである。わたしには先輩と違って政治の現実性を持っていた時期もかつて長くあったが、わたしと先輩でも確かに「アドルフ・ヒトラー」という共通の話題はあるにせよ、わたしが特に強度をもって凄い人物だと感じ、また尊敬もした政治家は田中角栄である。そして山本太郎。その「親友」とのことに話を戻すと、彼はもっと理知的で伝統的な政治家や、政局の分析などに関心があるようであり、角栄だの山本太郎だのといった機微はないようなのである。わたしはそうしたどこまでも合いそうにない人物に対しても、現実にはその逆でとても相性の良さを感じているのであるが、それはむしろ、共に笑うポイントや、そもそも笑うことをお互いに好むこと、趣味の日常系作品やインターネット空間などの共通する安心感においてであって、それはなにか愛着にはなっても結局「憧れ」にはならないのである。しかし、わたしがいつも先輩よりも親友に親しみを覚えることについては、結局、わたしの性格と気質において、「憧れ」よりも「安心」を優先させてしまうというどうにもならないところが強いのだろう。ここがわたしの能力を大幅に制約しているところでもあり、また同時にわたしの不安を安定化させてしまっているところでもあるので、わたしは彼ら周囲の人物の名誉も慮って言うが、わたしは、自分にも良く、相手にも良く、世間にも良いものとなるための「適切な距離」を覚えなければならないということで、いよいよもって彼らとは適切な距離をもって接しようと思うのである。このさい、適切な距離とはもはや不可逆的な心理的距離のことではなく、肝心なのは時間的距離のほうである。なお、これからも深い仲をつくりたい相手が出れば、わたしはその相手に対して深い交わりを試み、もって深い関係をつくったあとに適切な距離をとるということをしたいのである。
誤りの訂正として、仏教、ニーチェ、神秘主義、ドゥルーズ
違うのではないかと思う。今まで書いたことは全部ことごとく外れているような気がしてきた。実際には、先輩は中学時代にニーチェの『ツァラトゥストラ』を読み、ずっと無意味の楽しさでやってきたと言っていて、言葉でやるやつが大嫌いだと言っているので、この人は仏教なのではないか。そうだ、そうだ。わたしの仏教。いっぺん行った。それでやらないといけない。善悪の彼岸はそのまま仏教である。意味づけをするのは言葉でやるやつだからだ。キリスト教の歴史で言えば「神秘主義」である。だから、あくせくする必要はない。勤勉な仏教徒ではなかろうか。河本も、先輩も、進み続ける。反省しない。そうだった。思い出した。美しさの仏教は可能なようである。すごくかっこいい。つくみずの魚。キリストの魚。人間社会からの自由の象徴。しかも、人間社会から離れて水の中に住む追放的な自由。これが宗教のほんとうだ。だから、いくら意地を張ってもむだだ。「痴呆との遭遇」の池田大作のような悟りを、美に適ったものとすること。『シメジシミュレーション』、月島しじまは太宰や聖書を通過したが、「先輩」により『ツァラトゥストラ』を獲得する。エロいぜ!しじま。これはヲしさんが言ってたかな。組織化を経た仏教というのもあるにはある。いつでもだれでも。なぜなら、どんな人でもいただろうし、組織化されていればいい。意味がわからない、何を言っているのかわからない。それでいい。誤ってはいけない。天竺に行け。先輩に出会ったとき、わたしが洗礼を受ける前、彼と私が公園のベンチで語ったのは、無についてであった。先輩の、「それって絶対無?」という質問を覚えている。然り、エックハルトの祈り、すなわち、そのエッセンスはもう掴んでいる。頑張り頑張りで人間の思いで「律法」を精一杯守ろうとして、かえって「言葉」という動きをわがものとしようとすることではない。そうではなく、「御心のままに」という、脱魂型の、「委ね」の祈り。ユダが寝たとき、神秘の晩餐が始まる。ユダネルだからである。そういう筆致で描くこと。あたかも『千のプラトー』のドゥルーズの、中世神学を経て、スピノザも経たのちの、あの悟り的筆致のように。後輩のてっぺー。”(ゲーテ)”、的な書きぶり。しかし、あくまでも必要とあらば勤勉に書くこと。相楽勉。相-楽-勉。顔のある気の抜けた勤勉さ。「は~カントは面白いですね~」、という存在の言語道断。それを河本と先輩のように、目的論化しない無限の二重化で行うこと。あ、俺ゾーンに入った。これだ、ドゥルーズ&ガタリの速度感はこれだ。太宰の『ダス・ゲマイネ』。太宰は計算しすぎている。あれは立派な役者である。あくまでも無限の二重化で。フロクロ、ビビビビ!。ニーチェ対ワーグナー。仏教対朱子学。曹洞宗対臨済宗。福音主義&神秘主義対トマス主義。反対して書くこと。彼がけだるぎだった頃の速度感。俺の仏教期もブルーハーツを絶叫していたことを思い出した。引きこもりでも、平和主義でも、茨の道でも、無限の二重化の際限なき成長を求め、そして可能であること。できればユングは通過した方がいい。ヲしさんは悲劇に属する。つくみずの過去の過ちは、実は仏教的だったのではないか?そうだとすれば、あなたがた界隈人はもっと彼の貪食に付き合ってもいい。彼は聖書も銀河鉄道も読んでいるのだ。『シメジシミュレーション』の5巻。人間の機微をわかること。しかも聖書的であるが、二人ということを求めること。あれはなんだ?一切の心情も歴史的な生成があるとすれば、まさに、新しい時が来ている。新しい人間が?——新世が……。
2025年1月17日