絵画は死ぬとか死なないとかではない
いつの間にか21世紀は絵画をやることをまるで悪いことをしているかのようになってしまった。もともと絵画をやっていた多くのアーティストは絵画を捨て、新しいメディアで活動している。
わたしも絵画をしばらくやめてみたのに、あるときこっそり始めてしまった。周囲から後押しをしてもらいながら、なんとなく、なんとなく、ずるずると再開してしまったら、絵を描く生活に慣れ、気が付くと絵について考える生活に移り変わった。定期的に訪れる、自責の念に駆られながら。絵画をやることに理由をつけながら。非絵画的なメディアや要素も行き来し、なんとか絵画をやってきた。
しかしこれがうまくまとまらない。当たり前といえば当たり前かもしれない。なぜなら絵画をやっているから。
絵画を捨ててしまっているアーティストはたくさん居る。多くはドローイングはするようだが、ペインティング、絵画作品はやっていない。もう決別しているのだ。そういうふうにすれば悩みは無いかもしれない。
しかしわたしは禁断の扉をまた開けてしまって、もう後には引けないか、またそれを捨てるか。それとも更にまた分析をして絵画をやることを不可避な動機とすることができるか?
ここまで美術の言語が多様に、哲学的になったのは、美術家が絵画を捨てないからかもしれない。絵画には様々な伏線が張られ、作家は絵画をやりながらも美術に対しての動機を作品に込めているからだ。絵画は殺されても、自死はしていない。美術愛好家たちは20世紀の美術に、どんな夢を見たのだろうか?
ジョセフ・コスースが概念の可視化をして、湧き、まるでそれが本質的だと騒ぎちらかした20世紀。わたしは本当に、それが本質的だと思っているだろうか?ある一方で本質的だと同意しながら、どうして筆に手を伸ばすのか?この手を切ってしまいたい。
しかしこの手を切ったところで、足を使い、口を使って筆を持ってしまう。いくら身体が不自由になっても、想像したものを何とかビジュアライズすることに躍起になってしまう。
なぜこんなにも絵画をすることで悩んでしまうのか。
開き直って堂々と絵画をやるアーティストもまた一方でたくさんいる。
開き直って、というのも犯罪でも犯しているかのようでおかしい。
ならばわたしも堂々とやれば良い?
堂々とやるときも少なからずあったし、堂々と絵画の動機を語りながら生き生きとしていたときもあったが、ふと、わたしはなんて無力で、無意味で、短絡的で、向こう知らずで、愚かなんだと責め立て、
「もういますぐその筆を捨てちゃいなさい!」
と、どこからか聞こえるような気がして、何度も、今まで何度も「絵画をしない」ことを考えて新たに別な方法でアートを試行してきた。
しかし、それがどうにも辛い。
死んでしまいたくなるくらい辛い。
(いまここ)
誰が絵画を殺して、いつどこで絵画は自死したというのか?
絵画は自死できない。
勝手に殺されて、非物質の呪縛から、勝手に絵画は殺されてきた。
もしくは、メディアの多様化を崇拝する美術愛好家たちに。
本来ならば、美術は絵画にイチャモンをつける立場に無いはず。
本質的に、本質的に、というなら、絵画である物質的な動機にはまったく意味をなさず、またはテキストであることにまったく意味をなさず、または映像であることにまったく意味をなさず、またはNFTであることにまったく意味をなさず、非物質であることにまったく意味をなさず……だ。
美術の本質を問うたとき、それは物、メディアではなく、「絵画」や「NFT」と触れてまわるのではなく、その作家が何を問うていきたいのか、時代ごとの大事なことは作家にとって何なのか、だ。
だから、わたしは筆を捨てることも腕を切り落とすこともしなくて良いし、絵画をやる理由について語る必要も無いし、そもそも絵画は悪ではない。
みんな何も言い訳はしなくて良いのだ。
何にも、触れなくて良い。
ただ、自分のやりたいことをやり、思うことを発信する。それだけだ。
そもそもそれを考えている時点で、紛れもなく私が絵画という物質を気にして、美術の本質性を失っているということだ。
美術は、決して形式に依存していないし、わたしこそ絵画の中身を見なければならない。
(雨が降る前の研究所にて. 2020,10.5)
(サムネ:後藤てるみ「森羅万象」キャンバスに油絵,2022)