表層的なアート

今更ではあるが、表層的なアートについてこのタイミングで再考したい。(ここでのアートは現代美術を指す)

わたしは予備校時代の、不毛な現役・1浪時代を過ごした2年間、講師陣から口酸っぱく言われ続けたことがある。

「後藤の作品は“表面的”なんだよ。メッセージ性がない。」

半ばピンと来ず、手紙じゃあるまいし、映画なら分かるけど美術でメッセージって..。

しかし2浪目で現代美術に出会ったので晴れてメッセージ性とは何かを知るようになったのだが、この話.......。

何かに似ていないか?

そう、今日のアートシーンだ。

あれ?

メッセージ性についてへの自覚は、現代美術の存在を知ってから、それ以降、表層的な美術にならないよう「お題(ここでは社会や美術)」へ制作への思考は概念的にならざるを得なくなった。現代美術を引き継ぎながら、絵画のポテンシャルや意義・美術業界と世間との格差・これからのアートについて、学校形式や美術教育での回答と、美術の目的や脳内意識下での美術の発生源など、作家としての問責がある。そうした美術への態度は今日の今日まで変わることがないし、例え80歳を過ぎてからグランマ・モーゼスや所謂、老人植物画家になったとしても、その思想を捨てることは断じてない。

私がこの美術のロジックについて面白いなあ、と思うのが「予備校の講師陣すべて」が同見解だということだ。

コンポジション絵画風の講師、非古典的モチーフ風のテンペラ画講師、ホンマタカシ的圧倒的アーバン虚無風の講師、キネティック風講師。すべてだ。(ここでは誤解がないよう私見を踏まえて“風”とした)

コンポジションについては近代であるが、テンペラについては作家の内的影響は中世ヨーロッパである。必ずしも現代美術の文脈ではない。あとの作家は現代なのでここで触れる「メッセージ性」についての距離が近いのは言うまでも無い。

合格発表後の春の座談会では、コンポジション風講師からこんな話があった。

「ここにコップがあります。しかしコップの表面ではなく、本質をみる人になってください」

当たり前のように、美術は森羅万象の本質であるから必ず「変換」を要すると考えていた。武蔵美時代に多くの学生が何の変換キーもないどころか、純粋思考の武蔵美特有のダダへの自覚すら持ち合わせていないのは、単に本質のことを知らないためか、と状況確認ができる。若いので。

しかし..........。

卒業後、散々美術業界で揉まれ、本質への議論と追求をしてきたのでは????おかしいな。通っていた予備校教育は非常に腑に落ちたんだけどなあ。芸大受験自体がその対策だからなあ。(現段階で私はコンセプト重視の芸大対策については全く異論がない。もし後々、芸大油画対策について卒業後の作家性に問題が出てくるような試験対策であれば、考え直そうと思う)

なぜこの作品人気なの。

という問い。

人気と作家自身の自覚はイコールではないのは知っている。

しかし諦めてはいない。

そこに、カッコいいから という言葉で評価することに、どれだけのリスクがあるのか分からないのかな。例え近未来的な建築物を見たときに感じるカッコ良さを鑑賞者が美術の世界で感じたとしても「なぜこの作品を作ったのか」はもちろん、その一歩先の「新しい着想かどうか」の判断、キュビスムにしても、着想への絶対的新しさについては、絶対に判断として捨てられないもの。
つまりその人(鑑賞者や作家)にとって美術とは、その程度のもの、ということだったのだ。そうとしか思えない。「浅はかだよ」と作家に言ってあげるひとがいない。その点予備校では、明確なジャッジが下される。表層的な作品に対しては「技術はあるけどアートっぽいだけだよ。中身がないね」と本気でキレられる。(00年代の予備校教育)教育現場では必然的であるものの、社会に出ると誰も指摘してくれない。そんなことを作家に言ったら、顔を真っ赤にして怒り出すだろう。彼らはいつからプロになったのかは知らないが、己の発展は、自己承認と経済性からくる自己陶酔に帰着させることなんて、もちろんできない。インタラクティブ性も本質の結果であれば良いはずだが、もはや方法論となっている。

美術は何度もシミュレーションされるもの。シミュレーションが悪いとは思わない。しかしシミュレーションへの自覚と認識、それに対しての言い訳は問答無用で、意義と見地を公表する必要がある。もちろん知らなかったでは済まされない。
仮に無自覚で知らなかったのであれば、発覚時に素直に正直に認め、今一度方向転換したり、それでもアップロードしたいなら、シミュレーションの旨を真摯に全世界の人へ分かるかたちでアップロードすれば以前よりかは「マシ」になる。

もう飽き飽きだ。
その形式と方法、狙ったビジュアル、それは何度も見たよ。今まで何度もアートの中で行われてきたじゃん。じゃあ何でやるの?どこがアピールポイントなの?

創造動機への種類は、近代以降の美術では通用的であまり変化は見られない。しかし手法に関してはあまりに様々な変化で、手法の面白さが人類の美術に対しての経験への工夫の表れであり、そうして美術は発展してきた。確かに人類は戦争を繰り返し、様相をただ変えているだけの「循環」のようにも思える。世界平和、自然、不老不死、精神の安定..。平凡で同じような動機でスクラップアンドビルドされた人類史。そこを起点とし面白く肉付けされたものが美術だ。暴力へ対抗し、環境破壊問題を共に考え、メンヘラ・鬱的事象は解決してあげたい。だからそんなのは当たり前だ。美術はそこの動機に対しての「茶化し」でもある。
真剣に捉えてはいるが、真剣な解決策と提案をしてしまっては、それは政治活動や啓蒙活動やデザインと同義なので、美術の場合、それを茶化す。わりとくだらないことでもある。だけどだから面白くて私達はやっている。

それに対して表層的な美術(の仮面だけ被った欺瞞的美術)はというと、もはや形式化された、多摩美術大学油画専攻・入試シリーズである。ここの大学を出た作家であまり良い作家に出会ったことがない、とも言えない。言えないようで言えることでもある。しかし言えない。とはやはり言い難い。
明確に、これは多摩美批判ではない。あくまでも入試の傾向としてのひとつだ。なのでその他の今日の表層的な芸術形式はこの通り。

①ミニマルアートからの影響が顕著すぎる例

②女の子美術(自然派美術,お花畑美術,ポストナビ派)

③ヘタウマ美術(小作品が多い)

[今回は表層的な美術ということで、メンヘラ絵画等には触れない。彼女(彼)たちはコンセプトには何ら問題がないからだ。芸術への変換キーがなく“ほぼ一直線”という問題点は既に明白だ]

①ミニマルアートからの影響が顕著すぎる例
▶「シンプルなかたち」展(森美術館,2015)のように、コンセプトや動機への追求をすればするほど要素は限りなく最小限になるプロセス。この淘汰された結果としての様相が、各々の作家にとっては取捨選択できる欲求に対して自己理性的になれる様を「カッコいい」と結果的に形容した。10年前くらいから、断捨離的ミニマリズムはマスメディアによって注目の兆しを見せていた。アパートの間取り変更なども合理的である。しかし「非常に“今”」である。建築物や商業空間、プロダクトデザインはじめ今はますますデータ化と共にシンプルな暮らしと呼ばれるものに価値を見出し、物質的な暮らしをシンプルにする代わりに植物を育てたりパンを作ったりキャンプをしたりする。上質な暮らしと呼ばれる流行だ。美術作品も当時のミニマルアートを参照しジャッドやケリーなどに影響され日々の自分(作家)の暮らしとリンクしながら制作を行う。80年前から時が止まっている。バウハウスやコルビュジエのモダニズム建築は確かに日本の公団住宅や大量生産型建材とリンクするところはあるが、どうやらそこへの普遍性に呪縛されているようだ。表層的である。アートはとっくにポストモダンを通過、21世紀はポストヒューマン時代だ。またこの手の作品群は、立派なコンセプトを携えている。場がもたないし業界から多く求められているからだ。しかもあまり切実感のないコンセプトで、コンセプトっぽいコンセプトで業界が喜びそうなコンセプトである。売れやすく、実際に売れているからか、あまりそこに対しての危機感が薄い。しかし形式先行型の大好きなミニマリズムを今一度再考してみてはいかがか。

②女の子美術(自然派美術,お花畑美術,ポストナビ派)
▶この作品群の作者たちは、群れる傾向が強い。孤独に思想を編成していくと言うより、同じ感覚での「かわいい」を共有して育つ傾向にある。それらしいコンセプトを時には話し出すこともあるが、ここでも急務性はない。やはり売れやすく、売れてしまっているからか、希薄なコンセプトに対しての危機感が非常に薄い。表層的だ。服選びでのテンションを美術に対してやってはならない。

③ヘタウマ美術(小作品が多い)
▶大きな支持体で発揮する作家は、本来的とも言える。しかしいつでも逃げられるサイズの小作品が多いのは悪どくはないか。軽薄性に現代的価値を感じる美術関係者に対しての欺瞞だ。杭を出した振りをして何の杭でもないから打たれもしない。表層的だ。正々堂々と大型作品で勝負すると良い。

というわけで、現代美術にも一定の表層的な需要があることを再考してみました。

(2020.2.21 現代美術研究所湘南支部,後藤てるみ)