note9 黄泉戸喫(よもつへぐい)と共食について
#15 黄泉戸喫(よもつへぐい)と共食について
今回は、黄泉の国の原文にある黄泉戸喫(よもつへぐい)について、補足をしてみます。
原文に、
「・・・吾(あ)は黄泉戸喫(よもつへぐい)しつ。・・・」
とあります。
これを訳すると、
「私(伊邪那美命)は黄泉の国の竈(かまど)で煮炊きした食べ物を食べてしまったので、帰ることができません。」
となります。
なぜ黄泉の国の食べ物を食べるとと、元の世界に戻れなくなってしまうのでしょうか?
今日でも「同じ釜の飯を食った仲間」と言い、同じ火で調理した同じ食べ物を一緒に食べることによって深い仲間意識が生まれるという認識があります。
では、何故このように古来より考えて来たのでしょうか?
これは火を同じくすることは、食を同じくすることであり、食を同じくすることは「いのち」を同じくすることであるということが元にあるのではないでしょうか。
つまり火は日(ひ)に通じ、日は霊(ひ)であり、霊は「みたま」であり「いのち」であるという意味に捉えることができます。
ですから、黄泉の国の火と水で煮炊きしたものを食べると黄泉の国の人になるということなのではないでしょうか。
さて、神社のご神事の後には「直会(なおらい)」をします。神様に〔直〕接〔会〕うと書きます。
ご神事の中で特に大切なことは、神様に御饌神酒(みけみき)と言って食べ物やお酒をお供えすることです。そして直会は、そのお供えした御饌御酒をご神事後に下げていただくことです。それは同じ火で調理したものを神様にお供えし、私たちもそれを食べることにより、私たちの「いのち」が神様の「いのち」とつながることを意味しています。
直会は、お祭を構成する大切な行事の一つです。
例えば、天皇陛下が初めて即位された時に行われる大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇陛下の皇位継承に伴って行われる諸儀式の中でも特に重視される国家的祭儀です。大嘗祭の主要な目的は、仮説の大嘗宮で天皇陛下が斎戒(さいかい 心身を清めること)に斎戒を重ねた上で、皇祖天照大御神に神饌(しんせん 神様にお供えする食べ物やお酒)をお供えし、天皇陛下ご自身もご一緒に食べることにあります。
神様と天皇が同じ食べ物を食べる「共食」によって、天照大御神と天皇の御心が一つになり、その御心で国家のまつりごとが執り行われることを意図しているわけです。
補足ですが、毎年11月23日に行われる新嘗祭(にいなめさい)でもほぼ同じことをなさっているようです。11月23日は今も祝日ですが、戦前は新嘗祭と呼んでいました。戦後GHQの指導により勤労感謝の日として名前が変わりました。
そして、現在も全国の神社では、秋祭と呼ぶことも多いこですが、新嘗祭が行われています。お米を中心とした秋の実りを神様に感謝し、ご神事の後、お供えしてした食べ物やお酒を神様の前で、神様と共に食べて飲んで、楽しく過ごすのが全国各地で行われている新嘗祭です。
ということは、天皇陛下がなさっていることを私たちもしているということです。
そして、これは私たちひとりひとりの中に、天照大御神がいらっしゃる、という解釈にもつながります。
私たちの中に神がいる、神性が在るということです。
古来日本においては、国民を大御宝(おおみたから)と言っていました。今でも祝詞(のりと)では、国民を大御宝と表現します。国にとって国民は宝であると考え、ひとりひとりの中に神が在る、それはすなわち、同じ「いのち」であるということです。
また、お盆にご祖先様が帰ってくると、共に食事をします。これも共食です。先祖があって今の自分がある、そのいのちがずっとつながっているという考えが日本にはあります。
だから、お盆に家に戻られたご先祖さまにも、食事をお供えし、その前で私たちも一緒に食事をいただきます。
共食、つまり同じ食べ物を食べるということは、かみさまやご先祖さま、そして日々目の前にいる人との「いのち」のつながりとしての行為なのかもしれません。
以上のことを一つの解釈として聞いてくださればと思います。
今回はここまです。
途中の文章にありましたが、なぜ日本にとってお米が特に大切な食べ物であるかということも、どこかで書きたいと思います。
次回も、黄泉の国のお話しとの関連です。
伊邪那岐命が伊邪那美命との約束を破ってしまうくだりがありますが、その辺りの解釈をお伝えしたいと思います。
ありがとうございます🌈