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魏志倭人伝を論理的に考えると卑弥呼は伊都国にいた(3)
魏の使節は邪馬壱国に行っておらず、邪馬壱国は卑弥呼の国でない
魏志倭人伝では、卑弥呼がいた国の事を「倭」「倭国」「女王国」「邪馬壱国」「倭地」と色々な呼び名で記しています。この中で邪馬壱国と書かれているのは一か所だけ、「邪馬壱国に至る。女王の都とする所である」という文章に出てきます。普通に読むと、邪馬壱国は卑弥呼がいる国の首都であり、卑弥呼はそこにいるという理解になるのですが、果たしてこの女王は卑弥呼で間違いないのか? その事について考察します。
まず、出発点となった帯方郡から邪馬壱国までの道のりを以下に記します。
帯方郡 →(南あるいは東に約7000里)→ 狗邪韓国に到る →(海を渡って1000余里)→ 対海国に至る →(南に海をわたって1000余里)→ 一大国に至る →(海を渡って1000余里)→ 末盧国に至る →(東南に陸行500里)→ 伊都国に到る →(東南に100里)→ 奴国に至る →(東に100里)→ 不弥国に至る →(南に水行20日)→ 投馬国に至る →(水行10日 陸行一か月)→ 邪馬壱国に至る
この通りに進むと邪馬壱国は、遥か日本の南、海の上となり、邪馬壱国は何処にあったのか分からなくなります。
これを 私は、卑弥呼の国は不弥国まであり、そこから先の 投馬国、邪馬壱国に魏の使節は行っておらず、倭人からの風聞を魏志の編纂者である陳寿が勘違いして記載したと考えます。
理由を以下に述べます。
理由1 不弥国からの距離の表記が、不弥国までの「里」から「日数」に変わっている。
隋書倭国伝には「倭人は里数を知らない。ただ日数で計算している」 とあり、大和政権の人々は隋の時代ですら距離を日数で表していたようです。およそ400年前の北九州の人々もまた日数を使っていた考えられます。
不弥国から先は倭人が使う距離で書かれているのです。これは魏の使節が倭人からの風聞を記録したと考えるのが妥当です。「帯方郡から女王国まで、一万二千余里である」という記載もあり、使節が邪馬壱国まで行っていたなら、これまで通り里数で表記したと思います。
理由2「邪馬壱国に到る」でなく「邪馬壱国に至る」となっている
魏志倭人伝では「着く」を「到」と「至」の二種類の言葉で使い分けています。「到」が使われているのは 狗邪韓国と伊都国の2国で、他は全て「至」の文字が使われています。 狗邪韓国は倭国への出発点となる国、伊都国は王がおり、行政の中心を思わせる重要な国です。それと比較して、邪馬壱国は女王の都であるのに「至」の字が使われています。邪馬壱国が重要な国でない証拠です。魏の使節の目的地は伊都国であり、邪馬壱国には行っていないと思います。
理由3 不弥国から先の道程の記述が簡単すぎる。水行から陸行に変わった国の名前すらない。
不弥国まで、かなり丁寧に訪れた国について記載されていますが、そこから先の道程が簡単すぎます。船から上陸した重要地点の記載が全くないのはおかしいと思います。また、そこから一か月も歩いているのに国の名前が全く記載されていません。
理由4 首都であるはずの邪馬壱国の様子が簡単すぎる。
邪馬壱国についての記載は、官の名前、それと戸数の記述しかありません。もっと詳細に様子が記されている国もあり、ここが目的地だとは考えづらいと思います。
理由5 自分の国の戸数や道順が分からないなんて有り得ない。
邪馬壱国の紹介が終わったあと次の文章が続きます。「女王国より北は、戸数や道のりをおおよそ記載出来るが、その他の周辺国は遠く離れていて、詳しく知ることが出来ない」
不思議です。これが、私が邪馬壱国は卑弥呼の国ではないと考えた一番の理由です。女王国より北以外の周辺国は遠く離れている? 東、西、南に近い国はないのでしょうか? 官の名前さえ分からないのでしょうか? 使節が通過した国が北側だけで他の国は分からないとしても、倭人に聞けば分かりそうなものです。特に戸数については、千戸から七万戸まで色々な戸数が記載させていますが、使節が通過しだけで把握できるわけもなく、倭人からの情報によって書かれているのではないでしょうか?
これは、邪馬壱国が卑弥呼の国とは別の国と考えた場合、簡単に理解できます。使節は倭人からの情報で投馬国は邪馬壱国の北にあると認識しています。投馬国は官の名前と戸数、道のりが記載されおり、「女王国より北」とされる国は投馬国です。倭人は首都の邪馬壱国と通り道にある投馬国しか行ったことがなく、その周辺国の事は、遠い国のため詳しく知らないと理解できます。
理由6 奴国が二つある。
魏志では「周辺国は遠く離れていて、詳しく知ることが出来ない」と書かれた後、周辺国の名前が並びます。その最後に奴国の名があります。でも変です。邪馬壱国に行く途中、伊都国の次に奴国がありました。ちなみに二万余戸もある大きな国です。官の名前も記されています。「二万余戸ある奴国」と「遠く離れていて、詳しく知ることが出来ない奴国」が存在するわけです。一つの国に二つの奴国、不便で仕方ありません。例えば大奴国と小奴国のように名前を変えそうなものです。
これも、邪馬壱国が卑弥呼の国とは別の国と考えた場合、簡単に理解できます。遠く離れた邪馬壱国の奴国と卑弥呼の国の奴国。たまたま地名が同じですが、何の問題もありません。
以上が、私が魏の使節は邪馬壱国に行っておらず、卑弥呼は邪馬壱国の女王でないと考える理由です。
ここまで考察してきましたが、邪馬壱国が卑弥呼の国でないと考えると困った事が出てきます。
それは、次の文章。上記の周辺国の名前の後に続く「ここは女王の境界の尽きる所である。その南に、狗奴国が有る」という文章です。これは、「邪馬壱国の南に 狗奴国が有る」としか読み取れません。
でも、卑弥呼は、この狗奴国と戦争をしています。遠く離れた邪馬壱国の南にある狗奴国と戦争するなんてありえません。
そこで、魏志倭人伝より古く、陳寿も参照したであろう魏略逸文を参照すると「女王の南、また狗奴国がある」となっています。「その南」ではなく「女王の南」です。「その」は文脈上、邪馬壱国しか示しませんが、「女王」なら別です。この「女王」は、卑弥呼ではないでしょうか? そうだとすれば、狗奴国は邪馬壱国の南ではなく、卑弥呼の国のすぐ南にあったと考えられます。
卑弥呼と邪馬壱国の女王、二人の女王がいるのに、陳寿が勘違いして一人の女王としてまとめてしまったため、現在までの混乱が起こっていると考えます。
倭国と邪馬台国の関係について最初に混乱したのが唐です。
旧唐書の日本伝には「日本国は倭国とは別の国であって、その国が日の出る所に在るため、日本という名にした。しかし、これには他の説もあり、倭国がその名が華やかでないのを嫌がって、日本と名を改めた。また他には、日本は小国だった倭国の地を併合したという説もある。日本国の使者は、傲慢で誠実でもないので、中国は使者の言葉を疑った」という記述があります。新しくできた日本国がどういう国なのか分からなくなっています。
おそらく日本の使者は「大和国から来ました。日本国に改名したのでよろしくお願いいたします」と言ったことでしょう。以下、妄想します。
唐の役人 「なるほど、倭国から日本国に改名したんですね」
日本の使者「倭国ではありません。倭国は別の国です。大和国から日本国
に改名したのです」
唐の役人 「邪馬台国は倭国の首都でしょう。国名を変更したのなら倭国
から日本国と言って下さい」
日本の使者「違います。大和国が国名です。倭国は我々が併合しました」
唐の役人 「併合? 我々の史書には、倭国の王は邪馬台国にいると書い
ていますよ。邪馬台国は倭国の中の一つの都市です」
日本の使者「馬鹿な事を! その史書が間違っているのです!」
唐の役人 「なに! 馬鹿だって! 我々の史書が間違っているだと!
野蛮人のくせに傲慢なやつだ!」
というような会話があったのでないでしょうか? 邪馬壱国は卑弥呼の国ではないと考えるのが妥当です。
次回は、卑弥呼の国について考えます。