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魏志倭人伝を論理的に考えると卑弥呼は伊都国にいた(2)

邪馬台国は近畿地方にあった。(邪馬壱国と邪馬台国)

 卑弥呼が居たとされる邪馬台国ですが、現在残っている魏志倭人伝では邪馬台国でなく、邪馬壱国と記載されています。
 現存している魏志倭人伝は、唐の後の宋の時代のもので、版木のミスで「壱」が「台」になった(「壹」と「臺」は似ている)可能性があります。
 それを裏付ける証拠としては、唐の時代に書かれた隋書倭国伝に「魏志がいうところの邪馬台である」と魏志には邪馬台と記載されていたと読み取れる文があります。
 しかしながら、邪馬壱国であった可能性も否定できず、邪馬壱国と邪馬台国を分けて考えた方が分かりやすいと思いますので、魏志の原書には邪馬壱国と書いてあったという前提で説明を始めます。

邪馬壱国を邪馬台国と初めて記したのは後漢書倭伝で、南朝宋の時代に范曄 によって書かれました。後漢は魏より前の時代ですが、後漢書倭伝は魏志倭人伝の後に書かれ、魏志倭人伝を参照しながら編纂したと思われます。



魏志倭人伝・後漢書倭伝・隋書倭国伝の関係

 それでは、どうして、范曄 は「壱」を「台」に変更したのでしょうか? 私は、次の様に考えます。南朝宋の時代にも倭人が朝貢に来ています。その国名の発音が「壱」より「台」に近かったのではないでしょうか。
 後漢書倭伝が完成したのが432年、それに先立つ421年と425年に倭王の讃が南朝宋に朝貢しています。その頃の日本は古墳時代であり、讃は応神天皇、仁徳天皇あるいは履中天皇にあたるという説が有力です。 とすれば、南朝宋に朝貢した使節は大和政権の使節です。
 范曄は邪馬壱国は大和政権であると認識したと思われます。「邪馬壱」は「ヤマト」という音を表す「邪馬台」の書き間違いと認識して全ての「壱」を「台」に書き換えたのです。卑弥呼の後継者「壱与」も「台与」に変えてしまいました。 
 加えて、范曄は大和政権の位置もある程度把握していたと考えられる形跡が認められます。「壱」と「台」の変更の他に、 狗邪韓国の位置を「北」から「西北」に、狗奴国の位置を「南」から「東」に変更しています。これは、魏志倭人伝を編纂した陳寿が倭国を南北に長い国家と把握していたのに対して、范曄は東西に長い国家であると把握したためと考えられます。
 東西に長いと考えると、「北」にある国は「西北」となります。また、陳寿は「南」に邪馬壱国があると記述していますが、范曄は、邪馬台国が「東」にあると理解していたため、「南」は「東」の間違いであると認識して、「南」にあると記述されていた狗奴国もまた「東」の間違いであると考え訂正したのです。「邪馬壱国」を「邪馬台国」に変更したついでに「壱与」を「台与」に変えたのと同じです。
 


 時代を下って、唐の時代に書かれた隋書倭国伝ではどうでしょう。隋書では「(倭国は)邪靡堆に都する。すなわち、魏志がいうところの邪馬台である」と記載されています。
 この頃の日本は推古天皇の時代で、隋の記録では、倭王の名を 姓が「阿毎」、字が「多利思北孤」、号が「阿輩雞彌」としていますが、これは聖徳太子のことをさすとされています。とすれば、大和政権の使節です。
 隋の時代では「ヤマト」の音を「邪馬台」より「邪靡堆」の方が近いので、このように表記した思われます。また、「魏志がいうところの邪馬台である」という文はここに出てきますが、魏志では「邪馬壱」と記されていたという説を取った場合、「邪馬壱」では「ヤマト」と読めないため後漢書の「台」を採用したのだと考えられます。
 このように南朝宋代の范曄以後、中華の人々は大和政権のことを邪馬台国と記してきました。
 それ故、邪馬台国は間違いなく近畿にあったのだと主張します。
 魏志に記された「ヤマト」の音と少し外れた邪馬壱国は、単なる「台」の誤植なのか、大和政権と違う全く別の国なのかという問題は残りますが、それは一旦置いておいて、次回は、邪馬壱国は卑弥呼の国だったのかどうかについて考察します。


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