#1495 子どもの可能性の芽を摘む一斉指導
「画一的一斉指導」においては、一人の教師から、何十人という子どもたちに一度に効率よく知識を伝達することができる。
まさに「安上がり」の近代的教育手法だったわけである。
それはまるで「雀の学校」のようである。
このような一斉指導の流行により、日本の学校教育では、「正解主義」と「同調圧力」が渦巻くことになる。
一斉指導は、学級の中間層の子どもたちをターゲットにしているため、「浮きこぼれ」や「落ちこぼれ」を生む。
一番問題であるのは、一斉指導において、教師が「学習のペース」をコントロールする点だ。
「一度、そこで鉛筆を置きましょう。」
この一言により、全員の子どもの思考をストップさせてしまう。
これでは、「速く終わる子ども」だけが活躍する教室になってしまう。
もしも、その子どもなりのペースで学習できれば、「深い考え」に辿り着く可能性がある。
しかし、学習のペースを教師が全てコントロールする一斉指導では、それが「可能性のまま」で終わってしまうのだ。
まさに、子どものもつ「可能性の芽」を摘んでしまっているのである。
これを打破するためには、子どもたち一人ひとりの学習ペースを保障する必要がある。
教師がペースをコントロールするのではなく、その主導権を子どもたちに与える(返す)のである。
この手法こそが「個別最適な学び」の実現である。
子どもたち一人ひとりにフィットする手法は、教師一人だけが規定することはできない。
子どもたち一人ひとりが自己調整を繰り返しながら、自分に合う手法(学び方)を最適にしていくべきなのである。
これが実現できれば、子どもたちの可能性がもっと広がるだろう。
教師は可能性の芽を摘むのではなく、可能性を開花するのを支援する立場になるのだ。
子どもたちの可能性の芽を摘む一斉指導から脱却していきたい。
では。
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