
#647 書き言葉・科学的概念・外国語
かの有名な「発達の最近接領域」を発見した心理学者ヴィゴツキーは、「話し言葉・生活的概念・母語」は「書き言葉・科学的概念・外国語」と相互関連し、それぞれ逆方向に成長していくことを提唱した。
「話し言葉」は、自然的に、無自覚的に、習得することができる。
これは、幼児が養育者の言葉を耳で聞き、自然に言葉を発音できるようになる仕組みに基づく。
自然的に、無自覚的に使うことのできる「話し言葉」は、自覚的に文法を意識しながら説明することが困難になる。
そんなこと(文法)を意識していたら、うまく話せなくなる。
使えるのに、その説明ができないのである。
逆に、「書き言葉」は、非自然的に、自覚的に学ぶ。
生活を送る上で「書く」という作業は必要ないことが一般的なので、その動機づけがなされない。
なので、他者からの教育が必要となる。
そして、その教育のもとで、「書き言葉」は自覚的、意識的に学ぶことになる。
このように「話し言葉」と「書き言葉」には相互関連性がある。
「話し言葉」は「書き言葉」を覚えることで、自覚的に学ぶことができる。
逆に、「書き言葉」は「話し言葉」を生かすことで、自然的に学ぶことができる。
この関係性は、「生活的概念」と「科学的概念」の関係にも当てはまる。
人間は日常生活を送る中で、自然的に、無自覚的に「生活的概念」を学んでいる。
その概念を、言語を使って説明することは難しい。
まさに「使えるのに、説明できない」という状態である。
逆に「科学的概念」は、他者から言語を使って学ばなければならない。
非自然的に、自覚的に学ぶのである。
その場が「学校」である。
「生活的概念」は「科学的概念」を学ぶことで、自覚的にその意味を学ぶことができる。
逆に、「科学的概念」は「生活的概念」を意識することで、自然的にその具体・経験を学ぶことができる。
さらに、この関係は「母語」と「外国語」の関係にも当てはまる。
「母語」は養育者とのコミュニケーションにより、自然的に、無自覚的に学ぶ。
いつまにか、「母語」を操れるようになるのだ。
そして、それを使うことはできるが、意識的に説明することは困難になる。
逆に、「外国語」は非自然的に、自覚的に学ぶしかない。
「外国語」を使う必要性や動機づけがないからである。
なので「外国語」の学習を、他者からの教育により、進めることになる。
「母語」は「外国語」を学習することによって、初めて非自然的に、自覚的に学ぶことができる。
逆に、「外国語」は「母語」を活用することによって、自然的に、無自覚的に学ぶことができるようになる。
英語の文法は日本語で説明することができるのに、母語である日本語の文法を説明することが難しいのは、このためである。
これは日本人の多くが、日本語を媒介して、英語の文法を学んでいるからである。
そして英語を長く学び続けると、日本語を相対化することができるようになり、意識的・自覚的に日本語を話せるようになるのである。
※なので、ヴィゴツキーの理論で言えば、英語をネイティブスピーカーのように自然に、無自覚的に学ばせるのは、ナンセンスのようである。このことの賛否については、この記事では触れない。
このように、「話し言葉・生活的概念・母語」は「書き言葉・科学的概念・外国語」と相互関連し、それぞれ逆方向に成長していく。
これを、ヴィゴツキーは発見したのである。
そして、「書き言葉・科学的概念・外国語」を学ぶ際は、それぞれ「話し言葉・生活的概念・母語」を活用することが重要になる。
しかし、「書き言葉・科学的概念・外国語」は意識したり、自覚したりしないと、自然と学ぶことはできない。
理由は、これまで述べてきた通りである。
日常生活で使う必要がなく、その動機づけがなされないからだ。
そして「自覚性」「随意性」という、より高次な思考が必要になる。
これを助けてくれるのが、「他者」の存在である。
教師や自分より優れた他者が支えてくれることにより、自分では到達できない場所に辿り着くことができる。
この「自分1人では到達できないが、他者がいれば辿り着くことができる範囲」を「発達の最近接領域」と呼ぶのだ。
つまり、「書き言葉・科学的概念・外国語」の理解を実現するためには、教師や他者が「発達の最近接領域」まで引っ張ってあげる必要がある。
そのような非自然的、自覚的な教育がない限り、「発達の最近接領域」には届かず、「書き言葉・科学的概念・外国語」を学習することはできないのである。
そして、「書き言葉・科学的概念・外国語」を学ぶことができれば、結果的に「話し言葉・生活的概念・母語」もメタ的に学ぶことができるのだ。
教師はこのことを知っておく必要がある。
ぜひ、「話し言葉・生活的概念・母語」と「書き言葉・科学的概念・外国語」の相互関連性を覚えておきたい。
そして、「発達の最近接領域」を意識して、教育していきたい。
では。