#643 子どもは労働者ではない
資本主義の社会では、ヒエラルキーが存在する。
頂点に資本家・支配者が君臨し、その下に中間管理者、さらに下位層に労働者が位置付く。
労働者たちは資本家のために、そして「食っていくために」働く。
そこに「遊び」はないし、「内発的動機づけ」もない。
ただ生産性だけが重視され、自分たちが作った生産物との「心理的つながり」は皆無である。
まさに「社会の歯車」である。
この社会構造は「学校」にも当てはまる。
学校では、受験勉強のために学習が強制的に行われる。
その受験勉強により、序列化が決まり、ヒエラルキーの構成員を輩出する。
子どもたちは内発的に動機づけられることなく、受験のために、国のために勉強をすることになる。
彼らの行う学習の成果との「心理的つながり」は皆無である。
ただ良い成績をとるため、良い学校に進学するため、良い職業に就くために勉強をするのだ。
そして、またヒエラルキーが繰り返される。
まさに学校は、「社会の正当化機能」は果たしているのである。
これでは、子どもは労働者同然である。
本来、「学ぶこと」は楽しいはずである。
内発的に動機づけられるべきものである。
その学びが「強制労働」に成り下がっている。
それは、社会の構造のせいである。
社会の構造が変わらない限り、学校の授業は変わらず、子どもの学習意欲も変わらない。
日本の生徒たちは、世界的に見て成績は上位かもしれない。
それは強制されているからである。
しかし、学習意欲は圧倒的下位である。
当たり前である。
社会の構造のせいなのである。
それなのに、「子どものせい」「教師のせい」にしないでもらいたい。
一教師の力は無力である。
何も変えることはできない。
しかし、一歩ずつ歩んでいくことはできる。
発信し続けることはできる。
自分が変わることはできる。
社会がいつか変わってくれる日を信じて、これからも歩み続けていきたい。
では。
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