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#657 一斉授業の限界を感じたとき

私は、「一斉授業」を批判する記事をたびたび投稿している。

なぜ、こんなにも「一斉授業」を否定するのか。

このような心境に至ったのには、経緯がある。


私は初任で、小学5年生を受け持った。

当時は30人を超える子どもたちで、授業が大変だった。

正直、「学級崩壊」と言っていいレベルだった。

そこから「学級経営」や「授業づくり」について、熱心に学ぶようになった。

本を読み漁った。

そこからのキャリアは、学級崩壊とは、ほど遠い実践を展開することができた。

様々な技術、ノウハウを披露・駆使した。

子どもたちを操ることができた。

授業スタイルは一斉授業のままだが、全ての子どもが「ついてきてくれている」と勘違いしていた。

子どもたちを授業に参加させることができ、私自身満足していた。

退勤時刻も早かった。

天狗になっていた。


そこから大学院への入学が決まった。

プロジェクトの一環で、ある小学校に行き、授業実践をすることになった。

そこで、初任以来の衝撃を受けることになる。

「話を聞いてくれない」

「指示が通らない」

「目線も向けてくれない」

このような絶望感に苛まれた。

私は担任ではない。

でも、それは「言い訳」である。

私には、子どもたちをノせる授業ができなかった。

何もすることができなかった。


そこからである。

「子どもが授業に参加しないのは、子どものせいなのか?」と考えるようになった。

いろいろな教師の授業を見る中で、一斉授業が中心となっていることを自覚した。

そして、子どもたちの思考が置いてけぼりとなり、教師中心の授業になっていることを認識した。

「子どもは悪くない」

「一斉授業をしている教師のせいである」

と思うようになった。

ついに私は、「一斉授業の限界」を実感したのである。


このような経緯もあり、「一斉授業」を否定し、「子ども同士が学び合う授業」を肯定するような書籍を、意識的に読むようになった。

そうしているうちに、「一斉授業の闇」にどんどん気づき、「学び合う授業の有効性」を認識することができるようになった。


一斉授業は、工業化社会をつくるために大変活躍してくれた。

しかし、今はもはや工業化社会ではない。

社会の歯車を効率的に大量生産する必要は、もうないのだ。

一斉授業の役目は、もう果たされたのである。

これからは「学び合い」の時代である。

「協同」の時代である。

人間は、協同したからこそ、反映することができたのである。

今こそ、その「本能としての協同」に戻るべきである。

私はこれからも「学び合い」「協同」を大切にしていきたい。

そして、それらが広まる社会をつくっていきたい。

では。

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