#1597 課題の分離と自己責任と教師の指導性と構成主義と
アドラー心理学には「課題の分離」というものがある。
これを学校教育に当てはめると、「教師の課題」と「子供の課題」を分けて考えることになる。
教師は「教師の課題」として、自分がコントロールできる範囲のことを行う。
子供が学習するかしないか、行動するかしないかは「子供の課題」であり、教師がコントロールすることはできない。
しかし、この前提を間違った方向に解釈すると、次のようになってしまう。
子供に学習や行動の選択権を保障し、あとは「お好きにどうぞ」と丸投げする。
そして、
「学習したから成功した」
「学習しなかったから失敗した」
「いくら指導しても行動が変わらないのは仕方ない」
「いくら指導しても学習の成果が上がらないのは子供の責任」
「学習するかしないかは子供側の問題」
「どんな結末になっても教師の責任ではない」
「どんな結末になろうと子供の責任である」
「だから指導を続けない」
「指導を諦める」
となる。
こうなると、「自己責任論」に陥ってしまう。
しかし、これは危険な考え方である。
確かに教師がどう指導しようが、最終的に学習・行動をするかしないかのコントロール権は子供にある。
これは「課題の分離」の考え方である。
けれども、それを子供の「自己責任」にしてしまっては、「教育の放棄」「放任」を意味することになる。
教師として、これはあるまじき行為である。
「教育」を「自己責任論」にすり替えてはいけないのである。
では、どうすればいいか?
それは、「課題の分離」の考え方を前提にしつつも、「教師の指導性」を意識することである。
指導を諦めない。
教師の思いを伝え続ける。
見取りと指導を一体化させる。
子供の変容を期待し、信じる。
教師として、自分にできることを思考・模索し続ける。
このように、「子供の課題」はコントロールできないことを前提にしつつも、「教師としてできること」を考え続け、指導を諦めないことが重要なのである。
しかし、「教師が指導したこと=子供が学習したこと」と勘違いしないことも重要だ。
教師がいくら懇切丁寧に指導したとしても、子供がそれを100%学習するとは言えない。
これは「構成主義」という考え方によるものだ。
「学習」というものは、それぞれの子供の内部で個性的に構成されるものである。
よって、いくら教師が指導したとしても、それが子供の学習と一致することはないのである。
それでもなお、それでもなお、「教師の指導性」を意識し、指導を諦めないことだ。
子供の学ぶ姿を見取り、変容を捉え、次の指導につなげる。
だからこそ、子供に「学習したこと」を可視化してもらう必要がある。
可視化されることで、教師は子供の変容を捉えるヒントにすることができるのだ。
「課題の分離」の考え方はたいへん重要である。
教師が「全責任を抱え込むこと」を防いでくれる。
しかしそれは、「自己責任論」につながる恐れもある。
教師が指導を諦め、放任することを許してしまう。
けれども教師は、自己の「指導性」を意識し、指導を諦めてはいけない。
「教師が指導したこと=子供が学習したこと」という図式は、残念ながら成立しない。
それでもなお、「構成主義」の考え方をもとに、子供の内部で学習が深まっていることを信じる。
子供が確実に変容していることを信じ抜く。
そのような子供の変容が目に見えるよう、工夫して可視化していく。
その可視化された変容を見取る。
そして、その「見取り」をもとに、次の指導の手立てを継続していく。
このサイクルがとても重要なのである。
ぜひとも、「自己責任論」をふりかざすことなく、「教師の指導性」を志向していきたい。
では。