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ときどき考えること ㉒

昨日の記事を書きながら、アメリカでのディスカッションの時間を思い出した。

かみぽこぽこさんのクリティカル・アナリティクスの授業では、自分の意見と反対の意見の立場で議論をすると書いてあったけれど

私が受けたアメリカの授業では、教室の右側と左側だとか、前と後ろだとか、先生が勝手に決めたグループで勝手に決められた立場に立ってディスカッションを進めることになった。

だから、自分が賛成でも反対の立場になって議論に加わることもあれば、そのまた逆もありうる。そして、自分の意見と同じ立場である場合もある。

そんな風に始まるけれど、結局、自分の立場の反証をしながら、主張をし、反論をすることになる。

結果的に自分の意見を強めることもあれば、疑問を持つこともあり、意見を変えることもあるー

そんな授業が私は好きだった。

そして、それが今でも私に役に立っている。

「自分の考えをまとめる」とき、いろいろな反論を考えて、それに答えながら、文章を書く…そんな癖をつけてもらった。

だから、自分が意見を述べるとき、それに対する反論があるのも、違う意見があるのも当たり前…そして、それは、personalなものではない。

「違う」意見が存在することは、必ずしもその意見が「間違っている」とは言えない。

そう思って、今もいろんな意見を発信する。

その一方で、それは、帰国後、母国への再順応の期間に、私を苦しめる習慣にもなった。

今でもときどきため息が出る。

素朴な疑問も、単なる質問も、意地悪な質問も、真剣な疑問も

日本では全てパーソナルに受けとめられるように思えてならなかった。

It's not personal.  

仕事について語るときだけでなく、普段の生活でも、確認や念押しだけでなく、ただ疑問に思うことを口にするとき、それは、personalではなく、business 。

そんなセリフが、昔好きだった映画にもあったけれどー

他の人の意見を、攻撃ではなく建設的に捉えられる姿勢を持っていたいと思う。

議論とは、ロジックを競うものであって、相手の人格や人間性そのものを攻撃するものではないからだ。

議論は「論破」のためじゃない。「優しい人」になるためにある。
かみぽこぽこさん の記事より

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Terakoya Kamei
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