大人たちに考えてほしいこと
寺子屋では、「やばい」が禁句になっている。
もともとあまり良い言葉ではなく、使う必要のない言葉だし、子どもたちに使える言葉を増やしてほしいから、安易に「やばい」で済ませてほしくないというのが当初の理由だった。
私は、戦前生まれの父と、戦中生まれの母に育てられたので、家で「やばい」を使えば、文句を言われる家庭で育った。
父の前で初めて使ったとき、「『やばい』という言葉は、警察に捕まりそうになった不良少年が、『やばい、ずらかれ』というように使った言葉だ。お前が使うような言葉ではない」と、言われた。
生徒にも同じことを言う。だから、
テスト明けにうっかり「数学がやばい」なんて報告をする中学生には
「おぉ、数学が警察に捕まりそうなのか!捕まってくれるといいね、そうすれば、次回、数学のテストはなくなるかもね。」
なんて、応えることにしている。そうすると、
「あ、数学が大変なことになっています!」
などと、言い換えてくる。そんなときは、
「数学が大変なの? 君じゃなくて?」
と、もう一度聞いてみる。
「えっと、えっと、数学の結果はひどいものになるでしょう 笑」
予想か?予言か?・・・笑
そんなやり取りを繰り返すと大概生徒たちは「やばい」を使わなくなる。そして、ほかの人が言うのが気になりだすらしい。
そうやって、コミュニケーションをとりながら、話す言葉に気を使う習慣をつけてほしいと思っている。
昔は、相手によって言葉を使い分けるのが当たり前で、子どもたちも仲間と話す言葉が、そのまま年上の人たちに使えるとは思っていなかったと思う。
けれど、現代っ子たち、自分たちの言葉が万国共通かのように使ってくる。
私は「それならば、外国語も勉強しなくていいんじゃないか」と伝える。外国人にも「日本語を話せ」と言えばいい。なんなら、子どもたちが彼らの言葉を私たちが知らなかったときに言うように、
「ぇぇ~、知らんのぉ~、日本語?信じられやぁ~ん!」と言っておけばいいだろう。 笑
使う言葉に気を遣うことは、外国語学習の基礎にもなる。
ちなみに、自分の友人を観察してみると、子どものいる友人の方が、独身や子どものいない人たちより「やばい」を使う回数が明らかに多い。この仕事で学ぶ現代っ子の言葉たちも、独身の友人たちには、通じないことが多いけれど、子どものいる友人たちは自らも使っている。
子どもたちの言葉の乱れは、大人たちの意識の問題だと思う。