肩こりも悪いことばかりではない?
気圧のせいなのかわからないけれど、ものすごく肩が凝っている。気がする。「気がする」とわざわざ書いたのは、長年悩まされているこの痛みが、だるさが、肩こりによるものなのか、いまいち判然としないからだ。
世の中にはたくさんの肩こり改善法があって、どれもそれなりに効果はあるものの、決定版はないみたいである。そのときはちょっとよくなった気がしたり、この方法であればほんとうに肩こりを改善できるのでは?みたいないけているやつにたまにあたったりする。整体にも行くし、トレーニングもしてみている。でも、まあ肩は懲り続けている。
僕が一時期はまっていたのが、肩甲骨はがしで、これはけっこう効果があると思う。あと首のストレッチも効くと思う。
でも、これらもあくまで対処療法であって、少し時間がたつと、あまり効かなくなってくる。気がする。あるいは、ある部分が改善することで、他の凝った部分が気になるのかもしれない。
ところで肩こりという言葉は、夏目漱石が作ったものらしい。恋愛時にはわりにヘタレな告白をしていた漱石先生であるが、この概念を作ったのはほんとうにすごいと思う。
誰もが知る大天才だが、概念をつくってしまうというのは、言葉を扱う人間としては最上級のものだろう。
この言葉を知ると同時に、あの「肩こり」の感じが、インストールされはずだ。
ちなみに、諸外国では肩こりといっても通じないところもあるらしい。たとえば、カリフォルニアには肩こりがないなんて聞いたことがないだろうか?
湿度が低いので、体が「凝る」方面の負担がかかりにくいからだといわれていたのだが、これは嘘で、彼らは肩こりを肩ではなく「首」の問題として認識しているからということらしい。首痛くらいの感じか。
首のストレッチで、状況が改善したことがある僕としては、うっかり納得しそうになるが、やはりあれは肩こりといいたい。気圧の変化で悪化するわけだから、「凝る」という法がしっくりくる。
今日はツイッターで、新しい肩甲骨はがしを試して、ちょっとよくなった隙にこの文章を書いている。完全な肩こりの解決をもとめつつも、これでいいのかなあという気もしている。
われわれには、悩みごとや、立ち向かうべき課題がそれぞれある。
ひとそれぞれ、その内容やキャパシティは違うはずだが、「悩に」に時間や思考を割くににも限界があるだろう。その中に「肩こり」というささやかな強敵がいることによって、目をむけなくて済んでいる「解決できない強敵」があるのかもしれない。
それが、人生で立ち向かうべき避けて通れない問題であれば、目を背けている場合ではないが、そうで「ない」のであれば肩こりにその領域をつかわせておくのも良いかもしれない。
なんだか、自分が上り調子のときに限って、ーー後から考えると、ということだけれどーー瑣末な問題に拘泥していまうことがある。
肩こりはその煩わしさで、われわれの思考をシンプルにしてくれているのかもしれない。
目の前の痛みに対処せよ。不安に飲み込まれるなと。