わたしの愛するアリ・アスターみの詰め合わせこと『ボーはおそれている』の話
『ボーはおそれている』作品としての魅力
賛否両論だが、アリアスターが『ヘレディタリー/継続』や『ミッドサマー』のヒットを経て、思う存分に好きなことを表現しようとした結果、きちがい毒母の集大成を魅せてきたという点だけで個人的には2,000円以上の価値があった。
「罪悪感で子を支配するヒステリックな親」「主体性を持つことを許されず幼児性を保持したまま歳を重ねた子」という親子像は機能不全家族への解像度があまりに高い。
正直いえば経験者かと疑わざるを得ないレベルだ。
ただずっといわれている「アリアスターの精神疾患者の描き方がよろしくない」問題的には、今作もっとも問題ありそうで、批判があるのも理解できる。
そんなボウの描き方による、観客を置いてけぼりにしかねないめまぐるしい場面転調と、妄想と現実を反復横跳びしているような視点のせいで混沌に飲み込まれて受け取り損ねそうになるが、主題は『ヘレディタリー/継続』や『ミッドサマー』よりも明確に「精神疾患」「家族という呪縛」である。
このふたつが琴線に触れない人間には意味不明で狂気的なホアキン・フェニックスへの加虐行為としか思えないのかもしれない。
そして同時にこのふたつを主題とした映画を撮った結果あれが出力されるアリアスターの頭のなかはどうなっているんだろうか。
とんでもねえお方である。
「私は自己犠牲を払ったのだから、お前は愛を返せ」という条件付きの愛情しか知らない人間としての歪み。
「求められる人間になれない自分」への無力感。
植えつけられた価値観からはもう逃れられず、他者に支配されたまま人生を終える物悲しさ、いっさい希望がない映画である。
「あなたが選べ」といわれながら相手の望む選択肢を選ぶことを強いられる。
相手の望まない言動をすれば「私への嫌がらせか」とヒステリーを起こされる。それらを恐れて黙れば失望される。
「親に愛されなかった私がお前を愛してやっているのに」と身勝手な怒りをぶつけられる。
猛毒ママの解像度が鮮明だ。
個人的なアリ・アスター監督への執心
アリアスターは、機能不全家族持ちかつ近親者に精神疾患者+尊厳を無視して身体や精神を蹂躙された経験=自身の精神も脆弱で問題を抱えている、そんな人間でなければ見えないはずの世界を作り出す。
わたしが彼の映画で喚起されるのは恐怖や狂気でなく、共感なのだ。
彼の卒業制作『ジョンソン家の奇妙なこと』といい、「よかれと思って施している愛が、相手にとってただただ暴力」という地獄がアリアスターさんは大好きだよな、わたしも好きだよ。
アリアスター作品を観ていると感じる。
監督の「観てる人間を不快にさせたい」という欲求、
「観客の想像が及ばないくらい最も最低で最悪な状況を描きたい」を怪奇的な現象だけではなくリアルな人間の気持ち悪さでも表現したいという欲求。びしびしと伝わってくることになによりときめく。『ボーはおそれている』はそれの究極なのではないだろうか。
傍目からすると人を嫌にするためだけのぶっ飛んだ話の運びとも受け取れるが、その不愉快さは人が好きでなければ理解できない、繊細な心の機微を理解していなければ描けないものだと思う。
人が好きで、人を眼差し続けて、考え続けて、商業的な活動を行った結果の表現がアレとくる。
とんでもねえのだ。
アリ・アスターきっかけでホラーサイコスリラー映画を好んで観るようになったが、なんだかんだ今作も『ヘレディタリー/継承』もコメディだと思っているし、『ミッドサマー』は失恋ものだと思っているし、ホラーというより根幹にある「家族という呪縛」「メンタルヘルスの問題」がわたしに刺さっただけにすぎない。
彼は人が好きゆえに心を抉るように人を不愉快にさせるツボも緊張と緩和による笑いのツボも知り尽くしているのではないだろうか、と想像にはすぎないが、わたしはそう捉える。
人間が大好きなのに、同時に大嫌いという感情は身に覚えにあるものなので、彼の表現にどうしようもなく共鳴してしまう。
余談
ヘレディタリーやミッドサマーで家族に最も家族に縛られているのは女性だが、今作ではボウという男性だ。
男性の方がより「家」から逃れられないのではないか。女性は家父長制・男性優位社会だからこそ家で苦しむこともあるが、逆に新しい家族の所有物となることで元の家族から逃れることもできる。皮肉だよなあ。
あと個人的には痛ぶられ尽くされるホアキン・フェニックスが癖に刺さってしまった、え、すき、、かわいい、、、、あの初体験なんて、考え得る限り最も最悪であろうよ。
ただ支配的なママに育てられたせいで幼児性の抜けない中年男の童貞喪失シーンときめきが止まりませんでした。かわいそうかわいい。
次回作も楽しみです。