大葉くんが好きだった。 だから、大葉くんを許せなかった。 私は小さい頃から公園が大好きで、両親によく連れて行ってもらっていた。とりわけシーソーがお気に入りだったけれど、身体の大きい両親がシーソーを動かしていることに、少しの不満も抱えていた。 小学校の高学年になる頃には、お友達と私だけで遊ぶに行く機会も増えた。その時からだろうか、私は一緒にシーソーに座る大葉くんのことが好きになっていた。私の方が少し背が高かったものの、2人で足を浮かせてもシーソーは傾くことがなかった。私たち
あなたと一緒に居たかった 日向はパッと賑やかだ 笑顔はそっと穏やかで 濡らした髪がたおやかに 揺らされ私は気化してく 照らされ包まれささやかに 私はひとりで痛かった。
なにかを書きたくて開いてみたものの、何も書きたいことが思い浮かばない。いまも世界では沢山の問題が起きていて、本来の自分なら許せないと憤慨するような出来事も多いだろう。めらめらと燃えている様々な問題や出来事も、俯瞰するようになってしまった自分ではどうも熱が伝わってこないのだ。胸に秘めていた熱情を再び取り戻すには、どうしたら良いものか。 そもそも、胸に熱情があることが、果たして望ましいことなのだろうか?ほとんどの"オトナ"と呼ばれる人々は、それを望んでいないではないか。燃えると
私は、お金に対してあまり執着がない。もちろん、最低限の生活にお金は必要ではあるし、自分もお金が一切なかったら生きていけない。ただ、きっと最低限の生活と呼ぶには、あまりにも贅沢をしているなとも思う。 みんなは、この暮らしを手放すことを恐れているんだと思う。大きい画面で映画を観るために、高価な食材でディナーを彩るために、絢爛なアクセサリーで自分好みに自身を飾るために、必死に稼いでいる。 地球の全員がその生活をしたら、きっと一瞬で世界はエネルギーと資源不足に陥る。皆が高級車に乗っ
Twitterの下書きなどに、ふと思いついた叙情的な表現や、書き捨てが溜まっているんだけれども、時間を開けてから読むと、なんというか"イタイ"。 書いている時はこれ以上に美しい表現なんてないと信じ切っているし、表現に悩む時がきゃらめるのように甘美でうっとりしている。なんならもはや苦しい。 きっと、文学に恋をしているのだと思う。サピオセクシャルだから、サピオロマンティックだから。か、どうかは分からない。ただ、真剣に向き合っている瞬間・時間は、文学に、芸術に、ダサいくらいにカッコ
最近、"自分はサピオ(知性愛者)だ!"と主張している人をよく見かける。が、その中には私と同じサピオだとは思えない人間も数多くいる。 例えば、職業や学歴、年齢や見た目などで恋愛対象かを区切る人間だ。明確な定義がない事が原因だと思うが、どこが知性愛者なのだろうか。 学歴や職歴、外見の特徴などは、全て"知的"に分類されるものだ、と私は考える。 例えば、白衣を着てメガネを装着していて、常に本を読んでいる人などは"知的"に見えるかもしれない。が、知性的とは言えない。 それで
なぜ、悩みを解決しようとしない。なぜ、疑問を解消しようとしない。なぜ、自らへの負のレッテルに解嘲しようとしない。 例えば、どうしようもなく悩んでしまう時、なぜ周囲の優れた人間に相談しない?いつだって手を貸してくれるのは善意を持った他人なのに、なぜ知ってる人間にしか耳を傾けない。 例えば、どうしようもなく難解な問題に苦しんでいる時、なぜ周囲の優れた人間に相談しない?いつだって目線を合わせてくれるのは、目線を合わせるために屈んでくれる人なのに、なぜ同じ見え方の世界にしか
なぜ、頭のいい人間が、"普通"の考え方をしなくてはいけないのだろう。なぜ、"普通"に属する人達は、頭のいい人の考え方を追求し、理解に努めないのだろう。 『難しいから。』確かに、難しいかもしれない。ただ、頭のいい人が、敢えて普段辿ることのない考え方を吟味し、咀嚼し、明確に教えるということは、果たして『簡単なこと』なのだろうか? 私には、「普通」に苦しめられている友人がいる。その友人は、はっきりいって愚かで、無知で、読解力に乏しい。親切は時に傲慢であり、謙虚は時に怠慢だとい