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「孤独と自由」20年前の私からのメセージ

エッセイ「孤独と自由」~20年前の私の思い~

 逆らえぬ感情には従うがいい
 それが束の間のものであろうとも
 手をとらずにいられぬときには手をとり
 目の前のひとの目の中に覗くがいい
 哀しみと呼ぶことで一層深まるひとつの謎
 生まれて落ちてからこのかたの日々のしこり
 そのひとしか憶えていない黄昏の一刻の
 闇に溶けこむ暗がりにうつるあなた自身を
 一人がひとりでしかありえぬとしても
 私たちの間にはふるえる網が張りめぐらされていて
 魂はとらえてもがく哀れな蝶
 だからときとしてみつめあうしかないのだが
 どんな行動も封じられているその瞬間に
 かえって私たちは自由ではないのか
 慰めの言葉ひとつ浮かんでこないからこそ
 心はもっとも深い水脈へと流れこみ
 いつか見知らぬ野に開く花の色に染まって
 大気のぬくもりと溶けあうだろう

谷川俊太郎著『手紙』

 これは谷川俊太郎の詩集『手紙』の中にある「水脈」という詩である。自分自身がどうしようもない感情に縛られ、もがき、苦しんでいるとき、いつもこの詩を想い浮かべる。そして「逆らえぬ感情には従うがいい」という言葉に慰められるのだ。「感情」の対義語を挙げるとしたら「理性」であろうか。人間にはどうしても理性では抑えられないような激しい感情を抱くことがある。そして、その感情を抑えようとすればするほどコントロール不能になる。そのとき、「魂はとらえてもがく哀れな蝶」となるのである。

 倉田百三の『出家とその弟子』の親鸞聖人の言葉に、

淋しい時は淋しがるがいい。運命がお前を育てているのだよ。只何事も一すじの心で真面目にやれ。ひねくれたり、ごまかしたり、自分自身を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え。それだけ心得ていればよいのだ。何が自分の心の本当の願いかということも、すぐには解るものではない。様々な迷いを自分でつくり出すからな。しかし真面目でさえあれば、それを見出す智慧が次第に磨き出されるものだ。

倉田百三著『出家とその弟子』

とある。つまり、悩みが深いほど覚醒も高い。

 「哀れな蝶」となるとき、私はこの部分を思い出す。「淋しさ」は「逆らえぬ感情」の代表格といってもいいかもしれない。人間は誰でもこの「淋しさ」を抱えて生きている。「淋しさ」とは「孤独」と言い換えることもできるだろう。「孤独」というと私はいつもある人から送られた「人間は最終的には独りでしか生きていけないんだ」という言葉が頭に浮かぶ。そして、「だから自分の心の中にある問題は、結局は自分で処理しなければいけない。どんなつらいことでもね」と結ばれた言葉を淋しく目で追ったのを思い出す。「人がひとりでしかありえぬ」事実を目の当たりにした出来事であった。

 でも、もしかしたらこの「孤独」こそが「自由」への扉なのかもしれない。私たちはともすると何が自分の心の本当の願いなのかが分からなくなる。逆らえぬ感情下にあるときはなおさらだ。しかし、そんなとき、親鸞聖人の「ひねくれたり、ごまかしたり、自分自身を欺いたりしないで、自分の心の願いに忠実に従え」という言葉は、顔を背けることに慣れてしまった私たちに、真面目にひたむきに生きることの大切さを教えてくれているような気がする。そして、そんな生き方が智慧を見出す上で必要不可欠となるのだろう。「智慧」とは「自由」への扉を開くための鍵だ。「どんな行動も封じられているその瞬間に かえって私たちは自由ではないのか」この一見すると矛盾するような逆説的な真理がこの詩には内包されている。

 では、「智慧」とはどのようなものなのだろうか。ラインホールド・ニーバーの有名な祈りに、「主よ、変えられないものを 受け入れる心の静けさと 変えられるものを 変える勇気と その両者を見分ける英知を 我に与え給え」という言葉があるが、「英知」は「智慧」と置き換えることもできよう。その「英知」はどうすれば、得ることができるのだろうか。それは、孤独と自由の中で真面目に生きることで獲得できるものなのかもしれない。

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