エッセイ「美のある生活」
2004年夏
エッセイ「美のある生活」
なぜ人は美を追求するのか。それは、目に見えるかたちあるものの美の中に、目に見えぬもの触れられぬものの世界があるからだと思う。では、美とはいったい何なのか。私は脆さを秘めたものであると考える。ある限界の中に存在するからこそ美しいのだ。永遠にとどまるものなど、どこを探してもない。すべてが脆さの中にあり、脆さの中に息づいている。
春、私たちは桜の花をこの上なく愛でる。開花を待ちわび、心せわしくなる。花の命に限りあることを知りながら・・・・・・。万葉の時代から歌に詠まれつづけてきた所以は、桜が脆さの象徴であり、美の極限を表しているからであろう。
我が家の庭にはちょっとした日本庭園がある。松竹梅に藤や躑躅、それから紅葉や牡丹などがうまく調和している。ちょっと粋な燈篭もあり、風情ある祖父のこだわり庭園だ。廊下越しに眺める景色はなかなかのもので、四季折々にそれぞれのたのしみもある。特に夏の姿は格別だ。青々と茂った木々の美しさに生きる活力を与えられる。そこから聞こえてくる蝉の声もいい。
病身のため、夏には床に就くことが多い私にとって、窓越しに眺める自然美は何よりもの励みとなる。また、家屋に時節にあった花々が活けられているのもいい。玄関や床の間、それからお手洗いなどには、いつも生花があると空間が引き立つ。特に、お手洗いに、野の花などがさり気無く飾られているのはいいものだと思う。
この脆さを秘めた花々の美を引き立たせるものは、やはり空間であろう。私は日本家屋が好きだ。畳に障子、それから床の間。これらは、日本の風土や文化によくあっている。至るところに、太い木の柱がしっかりと立っているのも、不思議と安定感をもたらす。これらの素材は時間をかけ、ゆっくりと変化を遂げ、深みを増していく。花のように短い命ではないが、やはり脆くはかないものであろう。
私たちには、一瞬の美、はかない美を永遠のものにしたいという切なる願いがある。しかし、同時にそれが不可能であることをどこかで分っている。おそらく、美の中に無常を感じ取っているのであろう。そして、それを自分の人生とどこかで重ね合わせているのかもしれない。