人生を豊かにする「直感」と「直観」
「ちょっかん」といってどんな漢字を思い浮かべるだろうか?
あくまでも私の想像だが「直感(inspiration)」ではないだろうか? しかし、「ちょっかん」には「直観(intuition)」もある。
直感(inspiration)とは、感覚的に本質や道理・愛を感じとる力。直観(intuition)とは過去の経験に基づいた、即時的・論理的認識。
この違いを強く認識したきっかけは、20年前に友人のKさん(私より15歳くらい年上)との会話。その根底には、30年前(20歳の頃)に出合った心に響いた文章(志村ふくみ著『語りかける花』)の中に「直観」という言葉があったから。
答え合わせ
誰しも心を揺さぶられるような出来事がある。しかし、それがどんな理由でそうなっているのかはなかなか分からなかったりする。だが、例えば歳を重ねたり、経験を積んだり、知識を蓄えていく中で「あ~こういうことだったんだ」と分かる時が訪れたりするように思う。
50歳になった今、歳をとるのも悪くないと思うことの1つに「答え合わせができるようになる」というのがある。
今日は20年前(29歳の頃)に「直感」と「直観」について自分なりに考察して書いたエッセイ「直感と直観」をお届けしたい。
2004年春
エッセイ「直感と直観」
昨晩はなんだか興奮してしまった。新しい世界との出合いが自分自身を豊かにしているような気がしている。森のイスキアで活動する佐藤初女さんについて興味を持った私は、Kさんから教えていただいた彼女に関するサイトを見た。そして、インタビューの中の彼女の言葉に心打たれ、早速、言葉ノートに書き写した。そして、染色家である志村ふくみさんに通じるものを強く感じ、惹きつけられた。
たとえば「直感」ということについて、初女さんは以下のように話をしていた。
そして、志村ふくみさんは『語りかける花』という随筆の中で「直観」について以下のように述べている。
この文章は大学生時代に深く感銘を受け、それ以来いつも心の中にしまっている言葉だ。
志村ふくみさんは常に自然と対峙し、その自然の営みの中から目に見えないものを染色という形で表そうとしている。これは、初女さんの料理につながるものがあると思う。
上記はドイツの詩人ノヴァーリスの言葉だが、正にこの世界の中を生きている人たちなのだろう。
「直感」と「直観」。国語辞典で言葉の意味を調べてみると、「直感」とは、「理性を働かすというより、感覚的に直ちにとらえること」とあり、「直観」とは、「推理によらず、直接的・間接的に、物事の本質をとらえること。」とある。
「直感」も「直観」も私が常に大切にしたいと思っているもので、つながっているものだと思う。そして、「直感」とは、清少納言の『枕草子』の中の「をかし」の世界に通じるものがあり、「直観」とは、紫式部の『源氏物語』の中の「あはれ」につながると古典に親しむ中で感じていた。日本人がはるか昔から抱いてきた物事に対するとらえ方であったのではないだろうか。
私は、どちらかというと今までの人生の中で、「直感」に重みを置いて生きてきた。理性を働かすというより、感覚的に直ちにとらえ、それに従って人生を歩んできたような感じがする。それ故に、結果として、後悔するようなことにも遭遇した。しかし、これからは、「直観力」を磨かなくてはならない、と強く思う。そのためには、何が必要なのだろうか。
宮沢賢治は教師をしていた当時の教え子に宛てた手紙の中で、以下のように綴っている。
これは、宮沢賢治が教え子に送った最後の手紙の中にあった一文だが、物事の本質を見抜く上で必要不可欠な生き方であるという思いに至ったのではないだろうか。そういう姿勢が「直観」を身につけるために必要なのではないかと考える。
50歳の私の「直感」と「直観」
20年前の私は直観力を磨きたいと考えていた。そして、50歳の私は、「直感」と「直観」を大事にした生き方をしたいと思う。そういったことを大切にしながらの日常が人生を豊かにしてくれるのではないだろうか。そして、その根底には「直に(directly)」といった直接的な関りが欠かせない。これは、宮沢賢治が教え子に宛てた手紙の中にもあった「上のそらでなしに、しっかり落ち着いて」ということなのかもしれないし、うわべだけではない、ものの見方をすることの大切さであったりするのかもしれない。西田幾多郎が「水平的」ではなく「垂直的」に自分を知ることの大切さを説いていたが、深く自分を見つめる作業が「直感」や「直観」には必要なのではないかと思う。