飯嶋和一『星夜航行』を読む 【転石庵茫々緑】
だれかのブルースの歌詞に、
♫オレたちは、ただの魚、川の流れを変えることはできない
というのがあったが、飯島和一の小説の登場人物たちの根底には、川の流れを変えることはできないかもしれないが、おとなしい魚として権力という川の恣意的な流れに拉がれ従うのではなく、自分たちの信念に従った生き方の可能性を川の中で誠実に考え、それを時によっては、権力に抗してでも実行してゆくという姿勢があり、読者としては、そこにある正義ともいえる潔さに心を強くうたれ深い感動を呼び覚まされることとなる。
そして、前記のブルースでは、すべての川は海に流れ込みひとつになるというアンニュイな希望らしきイメージが続いているが、飯島和一には、そんな甘さはなく、川の流れに押し流されない生を川の流れにあたるなかで希求してゆくことが生の全てとなる。
信長の甲州制圧の終盤から秀吉の死による朝鮮戦役の終了までの時代を扱った本書の主人公沢瀬甚五郎は、三河の一向宗一揆の際に家康に逆臣した祖父と父を持ち帰農していたところを馬と交流する才能を見出され、家康の長男信康に側近のひとりとして仕えることとなる。ところが、武田氏と手を結んだと信長に疑われた信康への家康の自死命令の混乱のなかで、恩ある同僚を斬った冤罪により、本人もまた逆臣の汚名を着せられ、三河から逃走する。
ここまでが、第1部、その後、海外との貿易商人となった主人公は、秀吉の対海外貿易戦略、それに伴うキリシタンへの庇護と弾圧、そして朝鮮戦役にまきこまれてゆくことが、第2部から第4部にわたって描かれてゆく。
読者は、飯島和一による、日常での仕草から大局的な時勢にまで及ぶ細かい事実を積み重ねた文章をゆっくりとたどるうちに、その世界に親しみ、引きこまれ、良い長編小説によくあるように、本書を読んでゆくことが、もうひとつの生活となり、いつまでも終わらないかのような錯覚に陥ることとなる。
しかも、このもうひとつの日常は、決して滔々としたぬるま湯ではなく、常に手の届かないところから服従を強いてくる気ままな独裁的な権力との戦いの場でもある。
ひとが人として生きるにはどうしたら良いかという問いが飯島和一の小説にはある。ひととして生きるというのが、どういうことかを一概には言えないのは当然だが、ひとつのあり方としては、ひとが平和に交わり、生活の糧を得て、家族と暮らしてゆくことということもあるだろう。そこには、国家も、服従を強いる権力もまったくいらないのだ。
朝鮮戦役のように秀吉という史上初のひとりの独裁者による自分都合な侵略戦争は、多くの人を無駄に不幸にするだけであり、平和な暮らしを望むことのその対極にあるといえる。
秀吉の朝鮮戦役については、これまでもいくつかの小説で読んできたが、これだけ戦役や武将たちの半島での動き、朝鮮軍の反撃の模様とその事情などが丁寧に描かれている小説には巡り合わなかった気がする。秀吉の朝鮮戦役の推移が外交交渉の内容から当事者たちの思惑、戦乱での各地方の戦いの様子、そこでの当事者たちの行動が詳細に描かれ、この戦役の無謀さと無駄さがこれでもかこれでもか読むものに迫ってくる。
秀吉の無謀な朝鮮及び明への侵略欲、その無謀さを感じわかっていながらもそれに振り回される周囲の武将たち、さらに武将たちに無理やり徴用され、送り込まれる農民たちの悲惨さ。
侵略された朝鮮の人たちの悲惨さ。戦役で疲弊する日本国土、荒らされる朝鮮国土。
その時代のやりきれない殺伐とした空気が、鴎外の歴史小説並みに事実を重ねた抑えた文章のなかで立ち上がってきて、だんだんと息苦しくなってくるのだった。
それでも読み続けるのは、この小説世界に親しんでいるだけでなく、この小説から感じ取られる空気感は、現在の私の周囲にも立ち込めているからこそ、この小説を読み続けることができるのだろうかとまで考えてしまう。また、だからこそ、この茫々とした世界で生きてゆく主人公たちの生き方に共感を覚え、この小説を読むことを生きるための糧のひとつとしてしているのだろうとも思う。
秀吉の真意のわからぬ征服欲がつくりだす川の流れのなかで、登場人物たちは、この流れに振り回されてしまわざるを得ない状況のなかで、自らの信念を何度も自分の中に確認し、あるいは、切磋琢磨し、曲げることなく、その信念を活かす可能性を探る。それが、決して上手くゆくことばかりではなく、情勢による修正、それも後半に至り、またしても、主人公は、生の場所を変えざるをえないほど痛ましい体験を選択せざる得なくなってしまう。
ここまで、登場人物たちの信念という心のありようについて書いてきたが、この小説も飯島和一のほかの著作と同じように、本書のほんとの主人公は、登場人物たちの佇まい、立ち居振る舞いという身体に現れた動作であるとも言いたい。主人公ともいえる沢瀬甚五郎もその佇まい、立ち居振る舞いが丁寧に描かれ、人物があらわれてくる。
第1部での信康の前での乗馬の競い合いに参加する登場人物たちと馬たちの衣装の拵えの精緻な描写は、一遍の詩となり、鮮やかな戦仕立ての武士たちの絵巻物があたまのなかで広がり動き出す。
沢瀬甚五郎が馬に関する特殊な才能を見出されたこともあり、馬とひとにかかわる描写は精緻でデリケートであり、しかも、衣裳、振る舞いといった目に見える事象を中心にした語りにより、馬とひととのシーンを読むだけで、馬とひととの関わりの太古からの遠い記憶までをも呼び起こされる気がするのは私だけだろうか。
最後のエピソード。
三河を出奔し、海に生きる男となった沢瀬甚五郎が、数々の変転の果てに、かつての姿からは遠く離れた変身を遂げた後に、乗馬する佇まいで、信康の同じ側近だった同僚に見出され、お互いに口をきくことはできない立場にありながら、一瞬の交流をはたすというシーンに、心を動かされないものはいないだろう。
そして、飯島和一の小説には、夢とか希望とかの賞味期限の短いものではなく、勇気のように長く使えるものが常に描かれているのだと思う。