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テニス上達メモ086.『好かれる勇気』
▶「垂れ目」でも怖い人はいる
私たちはつい、物事の是非や有効性の有無などを、見た目で判断してしまいがちではないでしょうか?
たとえば「キツネ目の男だから怖そう」。
これなど、主観による強烈なジャッジメントです。
「垂れ目の人は優しそう」。
これも、認知にバイアスがかかっています。
実際には、キツネ目で人命救助に尽力した優しい人もいますし、垂れ目で連続殺人犯の怖い人もいます。
だけどつい、「今日から来る部長は気難しいらしいよ」などと煙たがりがち。
このような噂話も、広義の「見た目」と言えるでしょう。
▶プロの言っていることだから間違いない?
「美人は性格が良さそう」
「イケメンは運動神経が良さそう」
でも、「美人」で性格がイマイチの人もいれば(そもそも美人、イマイチという評価が主観的である)、「イケテナイメン」の男子が、運動神経抜群だったりもします。
社会心理学では「ハロー効果」というそうです。
目立った特徴に引きずられて、ほかの客観的評価が歪められます。
広義では「プロの言っていることだから間違いない」などもハロー効果です。
私もうっかり、「『イメージがすべて』といったのは、アンドレ・アガシでした」などと書いて、まるで「アガシの言うことだから正しい!」みたいな認知バイアスによくかかります。
▶ナダルの強烈スピンは「リバースフォロー」だから?
私たちが特徴的に目立つ見た目の印象に引きずられて「そうだ!」「そうに違いない!」と判断してしまいがちなのは、テニスも同じです。
「ロジャー・フェデラーのインパクトが安定しているのは、ヘッドアップしないからだ!」
「ラファエル・ナダルのトップスピンが強烈なのは、頭上に振り切るリバースフォロースルーだからだ!」
これらも、典型的なハロー効果と言えるでしょう。
見た目に現れるルックス、発言、権威、肩書きに惑わされます。
ハロー効果にならうと、プロのフォームを参考にすればテニスが上手くなると「思い込む」のは、認知の歪みが疑われます。
▶「主観的には」をしつこく使う理由
もちろん、「テニスゼロの言うことだから本当だ!」と信じ込むのも、ハロー効果です。
ですから私はたとえば「筋トレに関しては専門家ではないのでご参考までに」などという但し書きを多用します。
あるいは「主観的には」などと言って、それが万人にも当てはまるような絶対視する表現はなるべく避けるようにしています。
私が「美味しい」と感じたからといって、それが全員に当てはまるとは限りません。
▶「速いボール」はない
速いボールはありません。
重いラケットもありません。
いくら「対戦相手のサーブが速い」と言っても、ジョン・イズナーのそれと比べると、「遅い」のです。
いくら「300グラムのラケットは重い」といっても、340グラムに比べると「軽い」のです。
相対性の世界です。
東京の夏は暑いと言っても、アスワンハイダムで知られるアスワンの人たちにとってはどこ吹く風(本日の気温はこちら)。
また同じ東京でも、気温が30度近くまで上がる6月の今日この頃、「暑い」と感じますが、そのうち体温に迫る36度付近の猛暑日が続くと、30度に下がればかなり「涼しい」と感じるはずです。
▶「明日は暑くなりそうです」は「事実」ではない
また暑いのが好きという人もいれば、暑いのは苦手という人もいます。
メディアは、「明日は暑くなりそうです」などと報道するけれど、それは「事実」ではありません。
アスワンの人が聞いたら、目を丸くするでしょう。
それは「鬱陶しい梅雨空」などと伝えるに等しい主観的なジャッジメント。
客観的にアセスメントするなら、「明日は気温が高くなりそうです」。
▶「人それぞれ」のダイバーシティでいい
当たり前の話をしていますが、うっかりハロー効果に引きずられます。
相手のボールを「速い!」などと、感じてしまいがちなのではないでしょうか?
いえ、速いボールなど「ない」のです。
グレーを、「ほかの何色にでも合わせやすいから好き」という人もいれば、「曖昧な色だから地味で嫌い」という人がいていい。
そこは「人それぞれ」のダイバーシティ(多様性)でいいのではないかと、主観的には思うのです。
▶「グレーが好き」と言えない人たち
とはいえ自己肯定感が低いと、自分の好みや都合、体調などを言い出せなくなります。
色でさえ、「グレーが好きだなんて、私は変わっているのではないか?」などと感じてしまい、チームユニフォームを作る際、「そっちの赤でいい」などと人に合わせてしまいがちです。
自覚するかしないかは別にして(いえ、ほとんど自覚のないままに)、「自分には好みを主張する価値がない」という感じ方になる。
グレーがいいか悪いかは別として、「自分はグレーが好き」は言ってよいのです。
▶「自分は騙されない!」がいちばん騙される
危険なのは、「自分はバイアスになんてかからない!」と信じて疑わない人です。
「もしかすると自分もバイアスにかかるかもしれない」「すでにかかっているのかも」という人は、騙されにくい。
「超能力なんて絶対ない!」と絶対視する人ほど、視野狭窄となって、ほかの可能性が見えなくなります。
するとスプーンが手のひらを通過する映像を目の当たりにすると、「これは本物だ!」などと、認知にバイアスがかかってしまうのです。
確かめもせずに「正しいフォームを身につければテニスが上手くなる!」と信じ込んでいる人は、ほかの可能性が見えなくなるのです。
▶「悪魔の証明」で言いくるめられる
UFOだって、あるかもしれない。
悪魔の証明よろしく、「ない(かもしれない)ものをある」と証明するには、「ある」事例を引き合いに出せば事足ります。
しかし「ある(かもしれない)ものをない」と証明するのは、ほぼ不可能でしょう。
あるのは「有限」ですが、ないものは「無限」にある可能性があるからです。
「UFOが存在しないという証拠を示せ」と迫られても、それはとても無理な話。
ない証拠を示せないのであれば、「だったら存在する」と言いくるめられてしまいます。
▶「現象」の対義語は「本質」
では、騙されないためには?
ハロー効果が広義の見た目による認知の歪みを指摘するのであれば、目に見えない「本質」に迫ればいいのです。
辞書を紐解くと、「本質」の対義語は「現象」です。
つまり、見た目の「現象」ではない反対に、騙されない「本質」があります。
では、テニスでいう本質とは何か?
外見上のフォームに現れない、感覚、リズム、タイミング、イメージ、集中力です。
▶「人の本質」を推し量る
騙されないために人を推し量るなら、ルックスや地位、肩書、職業など広義の見た目ではなく、「自己肯定感」だと思います。
「自己肯定感の高さ=他者肯定感の高さ」だから、自己肯定感の高い相手は、私たちを肯定的に見てくれます。
私たちを肯定的に見てくれる相手を、私たちも肯定的に見るでしょう。
それは「あなたのことを認めているよ」などと口先で伝える形式的な「見た目」ではありません。
もちろん伝えても構わないのでしょうけれども、口先は表に現れる「現象」です。
むしろ「私たち友だちだよね」などと確認し合えばし合うほど、白々しく「そうではない」本質が露呈します。
▶「つながり」は感じる。確認しなくても
自己肯定思考ではなくて、自己肯定感です。
「感覚」であり、私たちの言動を司る「イメージ」です。
「イメージがすべて」と言ったのは、アンドレ・アガシでした。
ええ、アガシが言ったかどうかはさておき、「認めているよ」などとあえて伝えなくても、リスペクトし合えている間柄では目に見えない「つながり」を、お互いに感じるのです。
安心思考ではなく安心感、信頼思考ではなく信頼感です。
考えて安心、信頼するのではなく、それは感じる「感覚」です。
▶嫌われても、自分からは好き
本当に自己肯定感の高い人は、自分を否定してくる相手も、肯定的に受け入れます。
「自己肯定感の高さ=他者肯定感の高さ」の相関だからそうなります。
「嫌われるのも、何かしらの事情があったのだから仕方がない」とアセスメントします。
一般的には、自分を嫌う相手を、自分からも嫌いになりがちです。
しかし自己肯定感の高い人は、他者肯定感が高いから、嫌われても自分からは「好き」の相関です。
▶「よそはよそ、うちはうち」で上手くいく
一方、自己肯定感の高い人は、人から嫌われても、平気です。
強がりや、居直りなどではなくて。
自分を自分で肯定できるから、他者からの肯定に支えられずに済むのです。
「よそはよそ、うちはうち」なのです。
こういうと、よそとうちとを区分けしているから、「互いに肯定し合う」相関ではないように思えるかもしれません。
しかし相手に依存しないから領域侵犯とはならず、むしろ肯定感は高まるのです。
「自分は誠実に謝ったのだから、相手は許すべきだ!」は、完全な領域侵犯でアウト。
誠実に謝るのは自分の領域の話ですけれども、許すかどうかは、相手の領域内の裁量によるからです。
▶『嫌われる勇気』のその前に
自己肯定感が高まると、人に嫌われても平気と述べました。
ですが「嫌われる勇気」とはいっても、自己肯定感の低い人は、それが「怖い」のです。
「嫌われても構わない!」などといって、自己肯定感が低いままに言いたいことを言ったりすると、「言ってしまった」と悔やみ、ますます自己肯定感を損ないかねません。
▶「自己否定感=承認欲求」の相関
自己肯定感の高い人は、それが無理なくできるのです。
それこそ「勇気」など持ち出さなくても。
嫌われるのも「人それぞれ相性があるから仕方がないよね」と、当然のごとくありのままを受け入れます。
どちらか一方が悪いわけではありません。
だけど、自己肯定できない人は、他者に肯定してもらわないと身がもたないから、その成り行きとして「承認欲求」がどうしても強くなります。
そのせいで認めてもらいたいから、キャパシティを遥かに超える仕事量も断れずに引き受けて疲弊し、ストレスが溜まる。
挙げ句、仕事を振ってくる相手へ否定的な視線を向けるようになるため、「他者否定=自己否定」の相関にのっとり、自己肯定感を低めてしまうのです。
▶「嫌われないほうがいい」もジャッジメント
これは実際になってみないと、分からないことだと思います。
自己肯定感が伴わないうちは、「嫌われてもいい」と頭で考えてそのメリットをいくら理解しても、やっぱり「怖い」のです。
「いや、嫌われてもいいけど、できることなら嫌われないほうがいい」という感じ方にも、なるのではないでしょうか?
しかし自己肯定感の高まりとともに、自分が信頼している人からも嫌われていい。
「できることなら嫌われないほうがいい」などというジャッジメントもなくなります。
そう、「なくす」のではなく、「なくなる」のです。
すると、あくまでも結果的に嫌われにくくなります。
▶「好かれる勇気」を発動する
人と人の関係ですから、嫌われても構わないのです。
どちらか一方が悪いわけではありません。
とはいえ「嫌われる勇気」を振り絞る前に高めたいのが、「自己肯定感」。
高まれば、嫌われようとも思わないし、嫌おうとも思わないし、ごく自然な流れで「嫌われる」し、「それでいい」と感じるのです。
ですから、気負いがありません。
好かれようともしないから、落ち着いていられます。
好かれようとしないその結果、好かれやすくなります。
好きではない人からも好かれるリスクがあるから、ここでは「好かれる勇気」と、ベストセラーにあやかって名付けてみます。
▶自己肯定感の低い人は、人と親しくなりにくい
自己肯定感の低い人は「人と親しくなりにくい」のも特徴です。
ありのままの自分を出さない(出せずに)、「偽りの自分」を演じるのが、相手にとってのディスリスペクトだからです。
▶「ハロー効果」に騙されないために
改めまして、ハロー効果による認知の歪みに引きずられていないかどうか。
「引きずられているかも」という認知であれば、引きずられにくいでしょう。
「引きずられるわけがない!」という認知であれば、今後も引きずられ続けるでしょう。
見た目に現れる目立った特徴の印象に、認知が影響を受けてしまいがちです。
「ロジャー・フェデラーのインパクトが安定しているのは、ヘッドアップしないからだ!」
「ラファエル・ナダルのトップスピンが強烈なのは、頭上に振り切るリバースフォロースルーだからだ!」
騙されないためには、見た目の「現象」とは対を張る「本質」に迫るのです。
即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO
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